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 されど低糖質な日日

映画『ジョーカー』ネタバレ感想~『ジョーカー』は『ロッキー』の逆ベクトルの映画だった

『ジョーカー』を見るまで、ホアキン・フェニックスさんはよくこの役のオファーを引き受けたなあと思っていた。だってジョーカーといえば『ダークナイト』のヒース・レジャーさんを置いて他にいないもの。役作りによほど勝算でもあったのだろうかと。

結論から言えば、賭けは見事に「吉」と出た。バスの車窓に凭れかかり、ゴミ溜めのような街を見ている虚ろで寂しげな目。的外れで長く後を引くチック症の笑い声。バレエのようなコンテンポラリーダンスのような面妖な踊り。それらが頭にこびりついて離れない。僕らはまぎれもなく新しいジョーカーの誕生シーンに立ち会ったのだ。

映画『ジョーカー』オフィシャルサイト  

公開からだいぶ時間が経ったこともあり、感想もあらかた出揃った感じがする。あらすじ等の詳しい情報は上のオフィシャルサイトを見てもらうとして、ここでは僕が特に好きなシーン、よかったなあとしみじみ思ったシーンをいくつか挙げて感想の代わりにしたい。もちろんネタバレ全開です。

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『ジョーカー』ポスター
仕事をクビになったアーサーが、打ちひしがれて帰る地下鉄の中で、

最初の殺人を犯したあと、走って逃げた先のトイレで体を奇妙にくねらせながら踊るシーンがよかった。アーサーの中できっと何かがはじけた瞬間だったのだろう、それまで見せたこともないような恍惚の表情にゾクゾクきた。

自宅の冷蔵庫の中のものをぜんぶ掻き出し、空っぽになった冷蔵庫に自ら入ってドアを閉めるシーンがよかった。さっぱり意味がわからないし、それほど深い意味はないのかもしれない。突発的な行動だったとしても、アーサーの孤独感が滲み出てくるようだった。

元同僚でアーサーを陥れたランドルを自宅でめった殺しにした後、小人症のゲイリーを「君だけが僕にやさしくしてくれたから」と逃がしてやるシーンがよかった。慌てて部屋から出ていこうとするゲイリーだったが、身長が足りずドアの内鍵に手が届かない。恐る恐る鍵を開けてくれるよう頼むと、アーサーはやさしく愛情深く微笑んでから鍵を開け、ゲイリーを帰してやる。この映画の中で僕がいちばん好きなシーンだった。

アーサーが憧れのコメディアンであるマレー・フランクリンのトーク番組にゲストとして招待されたとき、ピエロのメイクと衣装に着替え、マンションから駅までの途上にある長い階段を踊りながら降りてくるシーンがよかった。

他の人の感想を読むと、あの場面をアーサーがダークサイドに堕ちていく象徴的なシーンのように捉える人もいて、まあそのとおりなんだけれども、アーサーの気持ちは後ほど触れる『ロッキー』におけるフィラデルフィア美術館前の階段を駆け上がるロッキーのそれと同じくらい高揚していたと僕は思う。

だってアーサーは、スタジオのマレー・フランクリンや観客やカメラの向こうにいるはずの大勢の聴衆の前で、最高にウケるジョーク(自殺)を披露しようとしていたわけでしょ。だからこそあのシーンのダンスだけは他と違って非常にダイナミックで力強いダンスだったのだ。

そしていよいよ本番前のステージ袖。スタジオに招き入れられる直前のキュー出しのシーンがよかった。例によってスローで奇妙なダンスを踊り出すアーサーの後ろ姿がカーテンに映る影絵のようにも見え、その背中に抑えがたいはやる気持ちがメラメラと立ち上るようだった。

「狂っているのは僕か、世界か」

アーサーがいったいいつジョーカーへと変わったのかと言えば、この直後、マレー・フランクリンに本名のアーサー・フレックとしてではなく “ ジョーカー ” としてスタジオに招き入れられ、大勢の聴衆の前に姿を見せた瞬間、アーサーは明示的にジョーカーになったのだと思う。

マレー・フランクリンを殺害した後、逮捕され移送中のアクシデントから救出されたアーサーが、彼を英雄のように称え崇めるピエロの仮面をかぶった群衆をパトカーの上から見下ろしながら、お得意のダンスを踊るシーンがよかった。まるでモーリス・ベジャールのボレロを見るような荘厳な美しさがあった。

 

監督のトッド・フィリップスさんがインタビューで語ったところによれば、

『ジョーカー』はマーティン・スコセッシ監督の『タクシードライバー』あるいは同じくスコセッシ監督の『キング・オブ・コメディ』の影響を色濃く受けているそうだ。Amazonプライムビデオでそれらを見直したところ、2作の主人公トラヴィス、あるいはルパート・パプキン、演じているのはどっちもロバート・デ・ニーロさんなんだけども、まさに『ジョーカー』の主人公アーサーはその2人を足して2で割ったような男だった。

アーサーが憧れるコメディアン、マレー・フランクリンを演じているのが、しかもそのロバート・デ・ニーロさんだというのもいかにも示唆的というか、トッド・フィリップス監督の憧れみたいなものがストレートに表出していて面白いなあと思った。あらためてロバート・デ・ニーロさんという俳優の素晴らしさも思い知った。

『キング・オブ・コメディ』で、主人公のルパート・パプキンが大物コメディアン(本物のジェリー・ルイスが演じている)の事務所に潜り込んで警備員たちに追いかけられ、突き当りの廊下を警備員とルパート・パプキンが右往左往するシーンがそのまま『ジョーカー』のラストの精神病院のシーンに使われ、まったく同じシチュエーションなのには笑っちゃった。

僕の記憶違いでなければ、往年のザ・ドリフターズのコントで、同様のシチュエーションで追う方と追われる方がときどき入れ替わるっていう奇想天外なのを見たことがあるような気もして、ちょっとそれ期待しちゃったけどさすがにそこまではやらなかったね。もちろん『ジョーカー』にもない。

脱線ついでに、『キング・オブ・コメディ』のルパート・パプキンのコメディアンとしての才能については「才能アリ」と思うけれど、『ジョーカー』のアーサーの才能には「凡人」いや「才能ナシ」としか僕は評価できない。残酷なことを言えば、アーサーはなるべくして “ ジョーカー ” になっていったんだよなあと思った。 

 

先刻から話題にしている最後の精神病院のシーンをどのように捉えるか、

この映画の最大の謎であるとはいっても、所詮アーサーは「信頼できない語り手」、どこまで現実でどこまでが夢(妄想)か、時系列はどうなのか、という判断は極めて難しい。例えば精神院病院のシーンもちゃんと時系列に沿った時間軸にあるという考えだってあっていいし、いやいや、あれは本来映画の冒頭にくるべきシーンなのだ、というのだってあり得る。

僕はといえば、時系列はそのままで、パト―カーが暴徒によって激突された時点でアーサーは死んでいる、という解釈をした。

精神病院の潔癖なまでに白で統一された壁や床は死後の世界のメタファー。カウンセリングの部屋から出てきたアーサー(ジョーカー)が廊下を歩いていくその足跡に血がベッタリついているのは、カウンセリングの女性(劇中、市の福祉員としてアーサーのカウンセリングを担当している女性と同じ)を殺している。

「何が可笑しいの?」
「面白いジョークを思いついたのさ」
「どんなジョークなのか教えて」
「あなたには理解できない」

そしてこの時のアーサーのいう面白いジョークというのが、いわゆる『バットマン』の物語全部だったらいいのになあと僕は思う。そう考えればアーサーとブルース・ウェイン(トーマス・ウェインの息子で後のバットマン)との年齢差も気にならない。いわゆる夢オチみたいなことをあまり快く思わない向きもあるのは承知しているが、それにしたって実に手の込んだスケールの大きなジョークになるだろう。

『ダークナイト』のヒース・レジャーさんの得体のしれない狂気でしかないジョーカー像と違って、アーサーのジョーカーは人間臭く生々し過ぎる、というのがこの映画の唯一の欠点といえば欠点で、だけどそれらは全部アーサーがあの世で作りだした妄想だよ、と考えれば許せるというか、納得できるというか、まあそんなこと。

 

そういう物語の構造的な部分をそっくり抜かすと、

あとの作りは至ってシンプルで、僕はこれを同じ熱量で逆ベクトルの『ロッキー』と名付けたい。『ロッキー』とは言わずと知れたシルヴェスター・スタローンさん主演・脚本の名作映画。主人公ロッキー・バルボアは、フィラデルフィアに住むロートルでしがない三流ボクサーである。

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ボクシングだけでは生活できないので、賭けボクシングの賞金や借金の取り立てを代行してお金を稼ぐゴロツキのような日々を送っている。ロッキーの唯一の支えは近所のペットショップで働く女性エイドリアンの存在だというのは、(『ジョーカー』の)アーサーの心のよりどころが同じマンションに住むシングルマザーのソフィーだけというと共通している。

ある日、ロッキーは所属するボクシングジムのボス・ミッキーから、ついに愛想をつかされジムのロッカー(ロッキーのロッカーというダジャレじゃないよ)を取り上げられる。破門つまりクビになるのだ。

アーサーも派遣会社をクビになってロッカーの整理にやってくる。ロッカーというのは会社勤めをした人なら理解できるだろうが、会社で唯一(専用デスクは事務職以外の場合ないケースの方が多い)自らのアイデンティティの拠り所というような場所と言っても過言ではないから、それを取り上げられる、あるいはその中の荷物の整理をして別の人に明け渡すことは、自分の居場所を失うことと同義なのだ。

そんな荒んだ生活の中で突然、ヘビー級の世界チャンピオンであるアポロ・クリードがロッキーを次のイベント(建国200年祭)で行うボクシングの試合の対戦相手に指名してきた。当初予定していた試合相手が負傷したからで、アポロは「イタリアの種馬」というロッキーのリングネームを面白がり笑いものにするため、無名のボクサーにチャンスを与えという名目でロッキーに白羽の矢を立てたのだ。

だけどロッキーはそんなアポロの実力を本物だと認めていたんだよね。片や頂点、片や底辺でも、そこは同じプロの世界に身を置くものだからこそ理解できること。

『ジョーカー』では、大物コメディアンでアーサー憧れのマレー・フランクリンが、偶然アーサーがクラブのライブショーに出て大恥をかいたビデを見て、彼が司会をするテレビショーにアーサーを笑いものにするためゲストとして招待する。チャンスといえばチャンスを与えられたかっこうだ。

圧倒的不利と思われる試合だったが、ロッキーはリングに立つことを決意する。アーサーもテレビ出演を快諾する。アーサーは自分がいま世間を騒がせている本物の殺人鬼であることを告白し、テレビの前で自殺する意志を固める。薄汚れた町を浄化する英雄として若者たちに祭り上げられるピエロのまま、最期で最高の花道を飾ることを期するのだ。

アーサーはマレーに語りかける。「喜劇とはなんだと思う? それは結局のところ主観に過ぎない。善悪だってそうだ。なにが正しく、なにが間違っているかを決めているのは主観だ」。一方、アポロとの戦いを前に、エイドリアンに覚悟を告げるロッキー。 

俺は以前はクズみたいな男だった だけどそんなことはいい 試合に負けてもどうってことない。最後までやるだけさ。最後のゴングが鳴ってもまだリングに立っていられたら、俺がゴロツキじゃないことを初めて証明できるんだ。

アーサーとロッキー、ふたりが言っているのは、自分の正義、自分の存在価値を証明できるのは結局のところ自分自身なんだということである。

前述したとおり映画『ロッキー』の名場面。朝靄のなか、トレーニングでフィラデルフィア美術館正面玄関前の階段を、ロッキーがテーマ音楽に合わせて駆け上がる場面は、アーサーがマレーの番組にはじめて招待されたときに例の階段を踊りながら降りてくる『ジョーカー』きっての名場面と完全にダブってくる。

『ロッキー』は街の底辺で生きるゴロツキが世界的なボクサーとなっていくベクトル。『ジョーカー』は同様に社会の底辺でもがき苦しむピエロが、殺人鬼としてゴッサム・シティの英雄、ひいてはバットマン最大の敵役(ヴィラン)となっていく真逆のベクトルの物語である。

ただし、『ロッキー』と『ジョーカー』どちらか一方が正のベクトルで片方が負のベクトル、あるいは陽のベクトルと陰のベクトル、という捉え方は間違っている。くり返すがそれはあくまでも主観の問題だ。どちらのベクトルも同じくらいの熱量で目的地点に伸びていることに変わりない。

ロッキーもアーサーも左利きだという共通点だってあるしね。