ヒロシコ

 されど低糖質な日日

9年前のあの日のこと(当時の日記より抜粋)

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東日本大震災から今日でちょうど9年がたった。節目の年というわけでもないが、今年は新型コロナウイルスの影響で大規模な追悼式典が自粛・中止になった。にもかかわらず被災地では、地震や津波で犠牲となった人たちの家族や友人らが集まって、何ごともなかったかのように遠くの海に向かって黙祷を捧げる。そのライブ映像を見てたら涙を禁じ得なかった。

未曽有の大災害と今のコロナ騒動を同列に扱うわけにはいかないが、スーパーやドラッグストアの空っぽになったトイレットペーパーの陳列棚を見たり、テーマパークの休業や百貨店の時短営業、スポーツイベントの自粛などのニュースを見聞きするたび、どうしたってあの当時のことを厳粛な気持ちで思い出さずにはいられない。

9年前のあの日とあの日のあとのことを、僕のパソコンのHDのなかに残っていたブログ日記をあらためて引っ張り出して読み返してみた。あれから僕はどう過ごしてきたのか。あの頃の気持ちとその後僕はどのように折り合いをつけて生きてきたのか。そろそろ、そういうことも本気で整理して考えなければならない時がやって来たのかなあと、強く意識したのだった。

過去の日記がブログを移転したりするたびに失われていったりもしているので、忘れてしまいたい過去のことはともかく、忘れてはいけないような気がすることは、できるだけ新しい媒体にその一部でもいいから残しておきたいと思い、ここに転載しておくことにした。ごく個人的な日記ですが、もしお時間があるようでしたら少しでも目を通してみてください。

 

2011-03-12 日常と非日常

きのうの大地震のこととその少し前のことと地震のあとのことを、全部というわけにはいかないが記録しておこうと思う。

まず話はおとといの朝に遡る。起きてつい習慣で最初に点けたメインのテレビが、どうあっても映像が出なくなった。昨年の7月にも同じような症状があり、あのときは中の基盤をひとつ交換した。今回も日頃からなにくれとお世話になっている電気屋さんに電話して、メーカーのサービスに連絡を取ってもらった結果、めでたく明日の午後いちばんに修理にうかがいます、との返事をもらうことが出来た。素早い対応。

で、きのう。約束どおりメーカーの人がやってきて、いろいろ見てくれたけれど、いわゆるよくある、修理するほうが安いか新しく買ったほうが安いか、という状態だと申し訳なさそうに宣告される。困って電気屋の社長に電話すると、いずれにしても一度政治的な決着を図ってみるから、となにやら物騒なでも頼もしげなことを言われたので、とりあえずメーカーの人にはいったん引き取ってもらった。

僕としては、前の故障のときもそう思ったのだが、家の中に他にテレビが一台もないわけじゃないし、いっそしばらくメインの大型テレビがなくてもいいかなあ、そういう暮らしもありかなあ、と考えた。おととい故障が判明してからカミさんや子どもたちに提案してみたが、やはり大反対された。そんなときだった。大きな地震があったのは。

テレビの故障ですぐに手の届く範囲に用意しておいたラジオをつけた。震源地は東北沖だと緊急のニュースは伝えていた。怖かったなあ。こんなこと言うのは情けないけどほんと怖かった。生まれてから経験したいちばん怖い地震だった。

はじめは静かにゆっくり、すぐに治まるだろうと思った揺れはいつまでも続き、だんだん大きく激しくなり、小物棚が外れて落ちて人形などが床に散乱した。食器棚の上の空のダンボールが転がり落ち、積んでいた本が崩れ、古いビデオテープや簡易写真アルバムなどをぐちゃぐちゃに放り込んでいたカゴが中身をばら撒きながら滑り落ちた。

上の子は家にいたので、すぐに無事が確認された。まもなく下の子が部活を途中で中断して帰宅した。カミさんとの携帯はつながらず、しばらく連絡が取れなかった。 いつまでも止まない余震に怯え、かぼそいラジオのニュースにかじりついていたけれど、子どもたちがふだん見慣れた映像がないとどうも不安だと言うので、他の部屋から古い小さなテレビを持ってこようかと相談していたところに、電気屋の社長が、代替のテレビを抱えてやってきた。

故障したうちのよりひとつ小さめのテレビだったが、まさにちょうどいいタイミングだったのでありがたかった。酷い地震でしたね、困っていると思って、と社長は言葉少なにあわただしく帰っていった。それからあとは、買い物も食事の支度も忘れてテレビのニュースにしがみつき、余震のたびに棚を押さえたり頭からクッションを被ったり、何かあればいつでも逃げられるようにドアを開けに動いたりした。

そうこうするうちにカミさんとも連絡が取れた。無事でよかったが、交通機関が完全にストップしているので帰れるかどうかわからないということだった。うっかり夜もだいぶ遅くなって、もう今夜は弁当とかおにぎりにしようと僕が子どもたちに提案すると、ツイッターで情報収集していた上の子が、コンビニでは弁当やパンが品切れらしいよ、と教えてくれた。

だけどそれは帰宅困難な人が多い都心だけの話だろ、と半信半疑で買いだしに行ったら、スーパーはいつもよりうんと早い時間に閉店していて、なじみのラーメン屋さんも閉まっており、コンビニには確かに弁当やおにぎりパン類はすっかりなくなっていた。カップラーメンだけはまだ豊富にあったので、それと懐中電灯の電池を買って帰ってきた。

さて、お湯を沸かそうとガスをつけたらつかない。またまた上の子のツイッター情報によれば、震度4以上の場合は自動的にガスの供給がストップする仕組みらしかった。メーターは外にあるので、さっそく懐中電灯を持って復旧作業をする。メーター上部にあるボタンのキャップを外し、中のボタンを奥まで押し込むと、横のランプが赤く点滅する。3分したらガスは復旧した。

無事お湯も沸かすことが出来、3人でカップラーメンを啜った。炊飯器の中にゆうべの残りごはんがあったので子どもたちに小さなおにぎりを2個作った。 田舎の母親から無事を確認する電話があった。こっちはたいしたことないから大丈夫だよ、と安心させてやる。九州に住む老いた母親にとっては、東京も茨城も仙台も盛岡も全部同じようなところにある「遠い場所」なのだ。

カミさんともう一度連絡が取れる。ぼちぼち運転を再開した電車やバスの路線を教えてやる。万が一のために、途中で一時避難場所の開放をはじめた大学や公共施設の名前と場所を教える。結局カミさんは日付が大きく変わった午前3時ごろ、無事にそしてヘトヘトになって帰ってきた。ホッとした。僕も子どもたちも、カミさんの無事を声では知っていたけれど、それでも実際にその顔を見るまでは安心して眠れなかったから。

そして今朝、ゴミ出しの日でゴミを出しに行き、この春いちばんのウグイスが鳴くのを聞いた。ゴミはいつもどおり回収された。余震はだいぶ回数が少なく揺れも小さくなった。スーパーやコンビニの品不足は続いていた。夜を前にして、弁当おにぎり惣菜冷凍食品カップラーメンインスタントラーメン飲料水肉パンなどは軒並み棚が空っぽになりかけていた。

僕も奥の方に僅かに残っていた商品をこそぐように買った。トイレットペーパーやティッシュペーパーも飛ぶように売れていた。チョコレートやマヨネーズやジャムなどのカロリーが高そうでエネルギー効率がよさそうなものまではまだ手が伸びていないようだったので、まだパニックというわけではなった。一方では電気の供給がストップするかもというニュースも流れた。

夜になって上の子は、福島原発の建屋の爆発事故で、避難範囲が10キロから20キロに広がったことを心配していた。田舎の母親から何度も電話があった。そのたびに僕らは東京は無事だからと安心させてやった。それでもペットボトルの水を送ろうかと言った。水道水が出てるからと何度も言った。そんなものは飲めないだろうからちゃんと沸かして飲むように、と言ってきかないのだった。

母親にとっては、いつまでたっても僕は子どもなんだなあ、と思ったら少し涙が出そうになった。こんなときにのんきな僕の暮らしぶりなんてダラダラ書き散らかして、おまけに不謹慎な言葉や行動で不愉快になった人、ほんとうにごめんなさい。被災された方で、もしツイッターをやれる環境にあって、心細くて誰かに話しかけたいと思ってる方がいたら、僕でよければ、24時間いつでもというわけにはいきませんが、話し相手にはなれると思います。@かDMで話しかけてください。

 

2011-03-17 無理にふつうの生活じゃなくてもいいんだよ

ふつうというのは実に難しい。本当はちっとも難しくないはずで、毎日なんなく続けられることだからふつうなのに、それがこんなにも難しいなんて。

同じ国で想像を絶する地震と津波があって、死んだ人の数が日ごとに増えて、いまだに安否や行方がわからない人がたくさんいて、いつも安全か危険かの議論がくり返されてきた原発の事故が実際発生し、交通が寸断され、物資が滞り、震源地から離れた僕が住む都内でも通勤渋滞と計画停電と買占め騒動などが起こり、そうしてまもなくあの震災から一週間にもなろうとするにもかかわらず、毎日毎日、余震の恐怖に怯えている。

どう考えてもふつうじゃない事態だからこそ、みんな、ふつうでいようふつうでいよう、と自らに言い聞かせ周囲にも呼びかけるのだ。ところがそのふつうが案外難しかった。

現に僕も、このブログをときどきどころかほとんど休んでいる。ふつうにいままでどおり、見た映画の感想とか読んだ本の感想とか花粉の飛散量も今年は未曾有だとか、田舎の母親から心配で毎日のようにかかる電話のこととか、決して買占めのためではなく、1本の牛乳やもうすぐなくなりそうなトイレットペーパーとかを手に入れるために朝の開店前のスーパーに並んだ話とか、そういうことをふつうに書こうと思うのだけれど、なぜか思いとどまってしまった。

ツイッターでもつい口数が多くなったり、他人を励まそうとするような柄にもない発言をしたりとかね。 僕はそれほどでもないのだが、上の子は、あの日経験したこともない大きな揺れとそのごの毎日の余震にすっかり気を弱くし、ふつうにしていてもゆらゆら揺れているようだよ、と言う。そんな上の子を誰が笑えるだろうか。

下の子は、今学期中の部活動が中止になった。家でACのCMを飽きることなく見て、例の「こだまでしょうか、いいえだれでも」の金子みすゞの詩を、何回聞いてもいい詩だなあ、と気に入っているふうだ。カミさんはわりとふつうどおりの生活を送っている。食糧不足になってもダイエットになってちょうどいいかも、とカラカラ笑っている。

テレビでもインターネットをみても、直接の被災者ではない僕らがいまできることは、ふつうの生活をすることだと、誰もが同じことを言う。少しだけふつうを失った人はそれではダメなのか。現実にふつうじゃないことが起こってしまったのだから、敏感に反応して少しだけ心のバランスや行動のバランスを崩したからといって、それくらいなんだ、と僕はむしろ言いたい。

ふつうでいよう、ふつうが大事、と僕も最初は言いつづけてきたけれど、考えてみたら、無理にふつうを装う必要なんてまったくないんだと思うようになってきた。これは逆説的ともこじつけとも言えるだろうが、「ふつうじゃないときにはふつうじゃなくしていることのほうがむしろふつう」だという考えも成り立つ。

ふつうって難しい。こんなときだからこそ、ふつうじゃなくても大丈夫だよ、とこれからは僕は誰かに言ってあげたいなあ。それにつけても『ハチドリのひとしずく』という話を思い出さずにはおれない。

森が燃えていました
森の生きものたちは
われ先にと逃げていきました
でもクリキンディという名のハチドリだけは
いったりきたり
くちばしで水のしずくを
一滴ずつ運んでは
火の上に落としていきます
動物たちがそれを見て
「そんなことをして いったい何になるんだ」
といって笑います
クリキンディはこう答えました
「私は、私にできることをしているだけ」  

 

2011-03-18 補欠でいます

彼岸の入り。暑さ寒さも彼岸まで、というから、どうか被災地の上にいち早く暖かな日が降り注ぎますように、と祈る。それにしてもあの震災からきょうでもう一週間が経つのだ。東京での揺れも僕は経験したことがないほど大きなものには違いなかったが、まさかこんな大惨事になるとは想像もできなかった。

夕方、電気屋の社長から電話があり、うちの壊れたテレビの修理をどうするかという件で、こんな時期ですしメーカーの方でも対応に追われているようなので修理するか別の方法を考えるかもう少しお時間を下さい、と言ってきた。こちらこそ代替機をお借りしたままでいいのか、と尋ねると、どうぞそのままで、と昔聴いた歌の題名みたいなことを社長は言った(丸山圭子の『 どうぞこのまま』だ)。

昨日書いたように、ふつうじゃないときだから僕もつい柄にもなくふつうじゃないことを言いたくなる。ただあまりヒステリックに自分と異なる人の意見をあげつらって責めないことだ、と自分を戒める。立場が変わればその刃はそっくり今度は自分の方に向かってこないとも限らないのだから。

そしてもうひとつ、これはどうしても言いたくてうずうずしていることを書いておきます。国民一丸となって、とか、オールジャパンという心構えでこの難局を乗り越えよう、という、心意気に水を差すつもりはまったくないが、野球でもサッカーでも、みんながみんなきょうのゲームに出られるわけじゃないし、いますぐ活躍できないからと言って情けなく思ったり心細く思ったりしないで、僕もね、ここは補欠でいよう、と腹を決めました。

ベンチにも入れなくてスタンドからの応援になるかもしれないけど、ここは補欠でいます。もとよりお叱りは覚悟の上です。なんか正直に言うと、まともに本も読めない毎日が続いているのだ。映画館にも行けず、DVDも、ぼちぼち再開されたテレビのお笑い番組も見る気にならず、直接の被災者でもないくせに、一人前に弱ったり怯えたり憤ったり興奮したりの人間になっている。どうぞそのままで、という言葉に甘えているだけなのかもしれない。

 

2011-03-20 元気です

墓参りに行く。いつもより長い時間手を合わせていたような気がする。用意していった花を供えると、墓の周囲がパッと明るくなった。節電ということについて考えるのだ。正直、休日の町に出かけてみると心が沈みそうになった。どこかしこも天井の蛍光灯を間引きしている。

ついこの間まで、スマートフォンだiPadだ地デジテレビだ3Dだエコポイントだオール電化だと騒いでいたが、エレベーターも止まりデパートも夜7時に閉まる町に一気に逆戻りした。そういうのも慣れるとまた平気になるのかもしれない。僕などは元々そういう暮らしからスタートしたのだから。

だけど、節電だけでいいの? という疑問は残る。いまはそんなときじゃないとわかっていても、ではいつまで神宮球場のナイターを我慢し敵視しなきゃいけないのか? デイズニーランドはいつまで閉園を続けなければならないのか? あるいはもうそういうのは僕らの生活に必要がないのか。

そもそも、日本中の原発も含めて震災以前のエネルギーは元に戻ることはあるのだろうか? 電気だけじゃなく水道やガスは? よく考えなければならない。僕自身はいまは明確な意見を持たない。でもよく考えたい。未来に何を残すのか。より便利で快適で「安全」な暮らしか。それとも漠然とだけどまあいまくらいの暮らしを維持することだけを心がければいいのか。

きょう墓参りに行って、花を供えることで一瞬それが何かのヒントになるような気がして、とうとうこうしたことを書きはじめてみたが、どうも上手く考えがまとまらない。

 

2011-03-22 始末をつける

また余震があった。あの日の前までだったら、震度3くらいの揺れでも、あっ、地震だ、であっというまに通り過ぎていたものが、このまま長く揺れ続けるんじゃないか、もっと大きくなるんじゃないか、と不安に駆られきゅっと身を竦める。そうでありながら矛盾することを言うようだが、一方ではなんだか地震慣れしてしまって、震度3程度の揺れではとっさに行動しなくなってしまった。

下の子がそこいらに乱雑に放り投げた携帯の地震警戒速報が、キュイーンキュイーン、と鳴り響くたびに、むしろその音に驚く。速報が鳴って、すぐユラユラときて、この短過ぎる時間にいったいなにをどうしろと言うのだと内心腹立たしく思うことさえある。これは危険な兆候だ。慣れなければ身がもたないが、慣れてしまうのは身の破滅だ。

朝から冷たい雨が降る。小さなうすいピンク色の豊後梅の花が見ごろを過ぎてハラハラ散って路地に敷き詰められ雨に貼りついている。ちぎり絵みたいにきれいだ。雨に濡れた花は掃きづらいからきょうはよしたが、毎日掃いても掃いても際限なく舞い落ちる花を掃く作業が僕はそれほど嫌いじゃない。一度散った花はもう二度と咲くことはなく、人間から見れば既に使命をおわったものだからこそ、僕はねんごろに始末をつけてやりたいという気持ちになるのだ。

専門家ではないので正確なことは分からないが、福島の原発は炉に海水を投入した以上、もう廃炉になることが決まったようなものらしい。だとすると、いま、消防のハイパーレスキューの人たちや自衛隊の人たちや東電やその子会社・関連会社の人たちが、危険を顧みず、昼夜を分かたず、不眠不休でその復旧作業に努めてくれているのはつまり、あの原子炉にもうひと働きしてもらうためではなく、より安全に廃炉にするための作業なのだ。

負けるとわかった戦をやってくれている。後始末をつけてくれている。だからと言ってそれが虚しいだけの作業かというと、断じてそんなことはない。どうかちゃんと始末をつけられますように。あの日以来読みさしになっていたドン・ウィンズロウ『犬の力』をしばらくぶりに開き、もう一度最初のページからそろそろと読みはじめてみる。 

 

2011-03-25 強く意識して忘れない

夜は鍋を食べる。下の子がもらってきた能天気な通知表に家族中でさんざんダメだしをしながらの楽しい夜ごはん。鶏肉や豆腐や白菜などの具材があらかたなくなったあと、残った出汁の中にごはんを投入し、味噌と卵で味を調えておじやを作った。

うちでは鍋の〆を煮込みうどんにする場合は僕、おじやにする場合は上の子と、ふだんは役割分担が決まっているのだが、今夜は成りゆきで僕が作る。熱々で舌が火傷しそうな、なんの変哲もないただのおじやだった。カミさんが、はふはふ身悶えながら、こういうの避難所で寒い思いしてる人に食べさせてあげたいね、となにげなく言う。

それを聞いても不思議と、いやらしいとか傲慢だとか、偽善的だとか安っぽい同情心だとは、僕はこれっぽっちも思わない。まして自分たちだけが温かいものを食べられるのが申し訳ないなどと思ってるわけでもない。もし心からそう思っているのであれば、僕らはそれを食べずに我慢するという選択だって出来るわけだから。

食べられるうちはありがたく食べます。でも、現実にいまはそれがかなわないほど不自由な生活を強いられている人たちが、同じ国の自分たちの共同社会のなかにいるということは、強く意識して決して忘れないようにしようと思うのだ。これは拉致事件についての皇后美智子陛下の言葉に倣った。

陛下は、いなくなった人たちのことをなぜもっと強く意識できなかったのか、とおっしゃった。直接の被災者ではない僕(ら)がこうして急ピッチで日常を取り戻しつつあるなかで、いまも日常とはかけ離れた場所で身を寄せ合って暮らしている人たちがいるのだ。近くて遠い人たちのことに思いを馳せ、ひとりひとりの苦しみや悲しみを出来る限り現実的なこととして想像し続けたい。あの日から2週間経った。