ヒロシコ

 されど低糖質な日日

イアン・マキューアンのスパイ小説『甘美なる作戦』を読んだネタバレ感想

イアン・マキューアンさんの『甘美なる作戦』を読む。舞台は70年代冷戦時代の英国。主人公セリーナは、縁あってMI5のスパイとなり、彼女にとっての初めての単独任務は有望な若手小説家トム・ヘイリーに接近すること。

ところがセリーナは、自分の正体を隠したままトムとごく自然に愛し合うようになる。いつかは正体を明かさなければならないと苦悩するセリーナ。一方のトムは、セリーナの正体にいつ気づくのか、それとも気づかないままなのか?

――という話の展開なんだけど、これだけだとよくあるハーレクイン小説みたいだ。スパイが主人公のわりにはそれほどの切迫感というか緊張感もない。どちらかといえばコミカルな感じで話はずっと推移していく。

しかも、この任務というのがよくわからない任務なんですね。意に沿う思想信条の作家をあらかじめ選び、無償の資金援助を行う代わりに長編小説を書いてもらう。内容にまでは口を出さないけれど、監視はする。いわばセリーナはその小説家のお目付け役というわけだ。

事実、そういうことが歴史上かつて行われていたらしく、本物の作家の実名を挙げてその例が紹介されているが、いまいちピンとこない。まあどっちにしても映画の007シリーズのような派手なアクションもなければ、かっこいいスパイの秘密道具みたいなものも出てこない。

ふたりは週末に会って贅沢な食事をしてとろけるようなセックスをして、トムが書いた原稿をセリーナが読む。およそタイトルどおりの甘い恋愛関係が永遠に続く。はずもなく――。ここから先だいぶネタバレするけど、それ書かないとこの小説の面白さをどう伝えていいか僕にはわからなくて。

***

いきなりですが終盤になり、実はスパイしている側がスパイされていたという逆転劇が起きるのだ。観察者だったはずがいつの間にか観察される側になっていた。トムの監視役のセリーナが、反対にトムに監視されていたというね。

つまりセリーナのスパイ活動は完全に不首尾に終わるわけだけど、それは本人の失策というより組織内の裏切りというか、まあそれも含めてセリーナ自身が招いた不幸な結果ではあったのだが。

この逆転劇はあっと驚く面白さだった。スパイの正体(それも恋人同士の)がバレるということをありきたりな愁嘆場にせず、そこからもうひとつ豊かな発想をもって小説の屋台骨そのものを揺るがせる。

しかも、最後に大胆な卓袱台返しまで用意してある。あーなるほどとそれでなんか全部の辻褄がピタリと符合するカタルシスがあった。で、そうなったらなったで、いっそう甘~いまさに甘美な恋愛小説になるというオマケつき。

「トリックは好きではない。私が好きなのは私が知っている人生がそのままページに再現されているような作品」とセリーナが云えば、「トリックなしに人生をページに再現することは不可能だ」とトムが云う。

そういうふうなメタフィクションみたいなことを登場人物に語らせておいて、著者のマキューアン自身がしたたかにも、最後の最後に最大のトリックを仕掛けているという皮肉。ネタバラシも大概にしておきますが。

あと、作品のなかで小説家トムが書いた短編小説が幾つか紹介され、そのどれもがちゃんと面白いというのもよかった。以下、簡単に要約。

  1. 下院議員の男と、彼とそっくりな双子の牧師の話。病気の牧師になりすまして教会で説教をした議員の男に、信心深い女が惚れ、男の愛人となる。女は男や男の家族を監視し、しつこくつきまとう。結局男は身を滅ぼす。女は男を信仰の道に導くことができたことを神様に感謝する。
  2. マネキンに恋する大金持ちの変人の話。男は大金をはたいて引き取ったマネキンに "ハーマイオニー" と、出て行った奥さんの名前をつけ一緒に暮らす。やがて男は動かないマネキンの心の中を勝手に忖度するようになり、嫉妬して身を滅ぼす。
  3. 奥さんが旦那が大事にしていたモノを質屋に売り払い、強盗に入られたとウソの作り話をでっち上げる。この裏切り行為により夫婦の愛情は完全に破たんするが、密かに旦那の方はそんな大胆なことをした奥さんに対する認識をあらたにし、ふたりのあいだに奇妙な関係性が芽生え始める。

う~ん、もう少し面白そうに要約して伝えられるといいんだけど(力不足でごめんなさい)、こういう短い話が他にも幾つか出てくる。でね、大事なことを云いますが、これらの話が、本編とまったく無関係かというとそうでもなく、どれも微妙にリンクしているところがミソなんだと思った。

俳句の手法に、一句のなかに二つの物事(季語と季語以外の部分)を取り合わせることで両者を衝突させ、あらたな効果を生じさせるというのがある。その場合、季語とそれ以外が、一般にあまりつき過ぎてもイメージの広がりに乏しく、離れすぎるとイメージが立ち上がらないとされる。

それと同じ匙加減が、小説全体と小説内小説との関係において、とっても上手くいってるなあという印象を僕は持った。こういう仕掛けがまるでミルフィーユみたいに何重にも積み重ねられ、抜群の美味しさを生み出しています。 

甘美なる作戦 (新潮クレスト・ブックス)

甘美なる作戦 (新潮クレスト・ブックス)