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北欧警察小説の傑作『猟犬』を読んだ感想

ヨルン・リーエル・ホルストさんの『猟犬』を読んだ。主人公はノルウェーの小さな町の警察署に勤務するベテラン警部ヴィスティング。ある日、彼の携帯が鳴り、娘のリーネから思わぬことを告げられる。リーネはタブロイド新聞の事件記者だ。

その彼女が言うには、17年前ヴィスティングが捜査指揮をとった誘拐殺人事件、いわゆる「セシリア事件」において、犯人を特定する決め手となった証拠(煙草の吸い殻)が最新のDNA鑑定の結果、何者かによって意図的に操作された疑いがあることがわかったという。

ヴィスティングはこの責任を問われ停職処分になる。納得できない彼は、当時の捜査資料をこっそりコテージに持ち出すという職務違反を犯してまで、ひとり再調査を開始する。

当時、捜査の行き詰まりを感じて、あるいは世間やマスコミのプレッシャーに耐えられず、警察署内の誰かが不正を働いたのだろうか。もしそうだとするなら、セシリアを誘拐し殺害した真犯人は他にいるのだろうか。犯人として服役した容疑者は冤罪だったのだろうか。

事件そのものにも本作品の構成にも、とくだん凝ったところはない。地味だけども堅実で信頼できるミステリであり警察小説だという感じがした。それもそのはず、これはシリーズ8作目で初めての日本語訳だそうだ。

どうりで安定感はそういうところから来ているのかと納得。まあ逆になぜ8作目から? という疑問は残るけどね。そのためにも是非他のシリーズも読んでみたい。

あと、面白いというか、なるほどなあと思ったのは、事件の捜査が行き詰まって、そんな中でめぼしい容疑者が現れると、そいつを犯人に仕立て上げるための必要十分条件だけを探すようになり、その他の些細なこと(アリバイとなりそうなこと)には意図的に目を瞑ってしまうというところ。

こういうことは、なにも事件捜査に限らずあると思った。たとえば研究の分野でもあるだろし、僕らが日常的に自分の病気を疑うとき、「家庭の医学」を見て該当する症状だけに目を奪われがちになったりするのもそう。

あるいは、何かを決断しなくちゃならないときも、自分のなかにいつの間にかできあがっている暗示的な正解に辿りつくよう、考えやデータや他人のアドバイスを意図して選択しているとかね。いわゆるバイアスというやつだが。

事件捜査なんてやっぱりとくに公正さが求められるだろうなあ。冤罪をなくすためにも。主人公のベテラン警部が、今回のことで図らずも一刻取り調べられる側に身を置いたことで、そちら側の心情も理解できるようになったと前向きに捉えるところがよかった。

「前よりは少しはよい刑事になれたかかもしれない」
というところがいいよね。 

猟犬

猟犬