ヒロシコ

 されど低糖質な日日

ラテンアメリカ文学の傑作『別荘』を読んだ感想

ホセ・ドノソ『別荘』を読む。分厚い造本に活字もびっしり埋め尽くされたこの本をぼくは夢中になって読んだ。こういうぶっ飛んだ空想を頭のなかに想い描く人がいたのだとしたら(実際いたわけだけど)その人は絶対イッチャッテルし、かつ、どこまでも自由な人だったんだなあと思う。

ある架空の小国の政治・経済を牛耳るベントゥーラ一族が毎年夏の3ヶ月間を過ごす別荘でのわずか一日だけのグロテスクでカオスな夢物語だ。

ベントゥーラ一族は長女のアデライダを筆頭に姉妹兄弟7人と配偶者(長女の配偶者は死別)、17歳のフベナルから5歳のアマデオまで子どもたち35人(実際には-2人の33人)、総勢何人だ? えーと、とにかくいっぱい。

そんな彼らが別荘内のすべての雑事を取り仕切るたったひとりの執事のもと、料理人から庭師など一年限りで雇われる召使いたちを大挙引き連れて都会からやってくる。

別荘は見渡す限りの荒野にある。周囲は地中深く突き刺さった1万本以上の鋼鉄の槍で囲われ、槍はグラミネアという異常に繁殖力が高い綿毛の植物の侵入から別荘を守っている。ところどころに「人食い人種」といわれる原住民たちの集落が点在するのが見える。

原住民たちは喋ることも禁じられた徹底的な管理のなかで金箔を生産することを課せられ、それを安く買い叩いたベントゥーラ一族が外国人客に高値で売り捌き莫大な富を得る。

一族の先祖も負けじとぶっ飛んでいて、教養のなさを冷笑でもされようものなら古今東西の書物の目録を作らせ、その本を揃えるかと思えば最高級の革をふんだんに費やして本の背表紙だけを作らせ、さらにその白紙の本を収蔵するための豪華な図書館を別荘内に作らせた。

ある日、大人たちが召使い総出で日帰りのピクニックへ出かける。留守番の子どもたちが別荘の外へ出ないようすべての馬車牛車を引き連れ、別荘には子どもたちの身の回りの世話をする小人数の召使いだけが残される。

大人たちがいなくなると子どもたちは彼らから自由を奪ってきた鋼鉄の槍を抜きはじめ、ある者たちはいとこ同士のセックスに耽り、また別の者たちは別荘に隠されている金箔を盗み出すというかねてからの計画を実行に移しと、まさにやりたい放題。

でも彼らにも怖れていることがあって、ひとつはこのまま大人たちが別荘へ帰ってこないこと。見捨てられればやがて食料はつき、遅かれ早かれ人食い人種たちに食べられてしまうかもしれない。

もうひとつは塔に幽閉されているたったひとりの大人、一族の末妹バルビナの配偶者で唯一貴族階級出身ではないアドリアノ・ゴマラが降りてくること。アドリアノは原住民たちと通じて彼らの王となった大人だ。案の定、彼の息子ウェンセスラオがアドリアノを救い出すため塔へ向かう。

――と、まあこの調子だとあらすじ全部書いてしまいたい誘惑にかられるが、なにしろ登場人物が多いので、ぼくは登場人物表をコピーしていつも手元で確認できるようにしながらずんずん読んだ。大丈夫、まだまだ先は長いよー。

内容はちっとも難しくないけど別荘内はもっとしっちゃかめっちゃかになって、そういえば1日の出来事のはずがある時点から一年経っているという具合に時間もぐにゃりと歪んで、それにそうとうグロテスクなので、まあいろいろと覚悟は必要だろうと思います。

だけどこれがもうめちゃめちゃ最高に面白い。

南米チリで起きた政変のメタファーであるという話も、映画『NO』の記憶がまだ新しいのでぼくはそうかと肯ける。仕掛けとしては現実にあった政変になぞらえた架空の物語が進行し、物語のなかで登場人物の子どもたちが『侯爵夫人は五時に出発した』という奇妙な劇中劇を演じるという。

しかもフィクションであることを強調するため作者が頻繁に顔を出し解説や言い訳をする。この重層構造はとっても効果的だった。でもそういう背景や構造をとくに意識しなくても、というか読んでる間は目の前のぶっ飛んだ展開に没頭した方がだんぜん楽しい気がした。

いやまあとにかくすごい本があったもんだ。これに尽きる。ぼくは最初に書いたように夢中になり過ぎたあまり立ち止まらずに読んだけれど、本当は登場人物ひとりひとりに割り振られた役割を丁寧に汲み取って読めばもっと何倍も面白くなったんだろうなあとそれはちょっと悔やまれる。

すばらしいです。 

別荘 (ロス・クラシコス)

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