ヒロシコ

 されど低糖質な日日

『バージェス家の出来事』を読んだ感想

エリザベス・ストラウトさんの『バージェス家の出来事】を読む。読み終って最後本を閉じる瞬間、ぐっと胸にこみ上げてくるものがあった。それが何なのか。ああ、生きるって大変なことだなあという溜め息のようなものか。ああ、生きてるって素晴らしいなあというよろこびだったのか。

いずれにせよ、もし僕が小説を書くとしたらこういう物語を書きたいなあと思わせるような何かだったのは間違いない。

舞台はニューヨークとニューイングランドの最東北部にあたるメイン州の小さな田舎町を往ったり来たりする。メイン州はアメリカでもっとも白人の比率が高いことで知られている。いってみればその極めて保守的な町に、スーザンと彼女のひとり息子のザックは暮らしている。

スーザンの長兄ジム・バージェスはエリート弁護士で、いまは故郷を出てニューヨークの高級住宅地に住んでいる。スーザンの双子の兄のボブも弁護士だが、彼はどちらかというと気はいいがジムと比べてうだつは上がらない。ジムにはいつも「バカ」だ「マヌケ」だと罵られてばかりだ。

スーザンとザックが住む町には近ごろアフリカのソマリアから難民たちが大挙して押し寄せてきた。町の人々はそのことを正直あまり快く思っていない。そんなある日、ソマリ人たちイスラム教徒が集まるモスクに冷凍された豚の頭が投げ込まれるという事件が起きた。

その犯人がなんと、スーザンの息子ザックだという。イスラム教徒にとって豚の頭がどういうことを意味するのか。ザックはその意味を知っていたのか知らなかったのか。いずれにしてもこれは小さな町を揺るがす大問題に発展する。

事件をきっかけに、ジムとボブのバージェス兄弟はそれまでなにかと疎遠だった妹のスーザンと頻繁に連絡を取り合うようになった。そして当然の帰結として、過去の忌まわしい記憶とともに一度は捨てたはずの故郷の町とも再びかかわらざるを得なくなった。

ソマリ人が集まるイスラム教のモスクに豚の頭が投げ込まれるという事件は、宗教や民族や人権の問題を孕んだそうとう深刻な事件には違いないし、事実この小説でも警察や行政や裁判を通してそこには大きく紙数を割いている。

が、事件そのものをジャーナリスティックに捉えることよりむしろ事件をきっかけとしてバージェス家の兄弟やそれぞれの家族(別れた夫や奥さんも含め)との関係が事件前と後でどのように変化したのか、封印したはずの過去がどのような形で再び表に出てくるのか、といったところに読み応えがあった。

得てして人というのは弱いから逆に虚勢を張ったり、自分を大きく見せようとしたり、自信なげにおどおどしたり、相手に嫌われないよう相手のペースに無理に自分を合わせたり、いっそ世間と距離を置いたり、酒や薬や場合によっては仕事にかこつけて逃げたりもする。

でもそういう薄皮が剥がれたときにその人の真価が問われ、そんな大げさなことじゃなくても、本来の愛すべき姿が顔を覗かせたりするものなんだと著者は僕らに穏やかに語りかけているのだ。

僕らがいますぐこのバージェス家に起こった出来事とまったく同じ状況に置かれるとは考えにくい。でもこれと似たような些細な出来事は日常のどこにでも転がっているだろうし、かつて通り過ぎた出来事かもしれないし、これからも起こりうることに違いない。

そうやって僕らも少しずつ生活スタイルや考え方を変化させてきたのだ。そしてこれからも同じようにやっていくのだろうなあと。変化の大小はともかくとして、人や人と人の関係や人と社会との関係性に変化をもたらさないような出来事なんて実際なにひとつないのだと。

それを丁寧に掬い取ったこの小説が心に響かないわけがないと思った。眠れないけど睡眠薬なんてのんだことないから怖いのよという妹のスーザンに、「じゃあ、いま電話しながら呑んだらいい。寝つけるまでしゃべっててやるよ。」というボブのやさしさが全編に沁み渡っていた。 

バージェス家の出来事

バージェス家の出来事