ヒロシコ

 されど低糖質な日日

ジュンパ・ラヒリ『低地』を読んんだ感想

ジュンパ・ラヒリさんの『低地』読み終る。短く美しいセンテンスで丁寧に編み上げられた心地いいリズムに酔いしれる。図らずもひとつの家族となってしまった人々のずしりと重い歴史の現場に長いこと立ち会った気分だ。

インドはカルカッタで育った兄弟スバシュとウダヤン。彼らと両親が暮らす家の前にはふたつの池とその奥には広大な低地が広がる。高温多湿な雨の季節ともなると、ふたつの池を隔てる土手も低地も辺り一帯はすっかり水没して布袋草という浮き草が繁茂する。

ふたりの兄弟は幼いころより何をするのも一緒だった。だがやがて個性の違いがふたりの袂を分かつ。弟のウダヤンは活動的で長ずるに従い過激な共産主義革命の運動家へと身を投じ、一方学究肌の兄スバシュはそいういう弟のやり方には馴染まず、アメリカへ渡ってロードアイランドの大学院へと進み研究者として生きる道を選ぶ。

ところがその兄の元へ、弟の訃報を知らせる手紙が届いた。ウダヤンの活動は過激さの一途をたどり、武力闘争の果て両親と当時結婚して身重となった妻ウガリの目の前で逮捕され射殺された。

婚家で義理の両親の元鬱々と暮らす弟の妻を、弟思いの兄は周囲の反対を押し切って半ば勘当状態でアメリカへ連れ出す。スバシュは弟の子(のちにベラと名付けられる)もろともウガリの人生を引き受ける決意を固めた。

高温多湿のカルカッタから冬は雪が降り積もる厳寒のロードアイランドへ。殺されたウダヤンも含め、彼らの人生はここまででも十分映画のようにドラマチックだが、実はこの後に続く長い長い家族の歴史こそが本書の素晴らしさの所以なのだと知ったときの、小さな絶望感にも似た驚きがぼくの心を容赦なく射すくめるようだった。

スバシュとウガリは本当の夫婦になれるのか。ふたりとベラは本当の家族になれるのか。そもそも本当の夫婦、家族とは何か。という、ある意味どこにも正解がないようなテーマに著者は正面から向かい合っていく。果たして彼らの運命は――。

激動の歴史を生き抜くひとつの家族の崩壊と永続性のはざまを、静かで豊かな筆致で書きしるしながら、著者のうちにふつふつと湧き上がるぶっきらぼうな怒りのようなものを感じずにはいられなかった。

生まれ育った土地に縛られて生きるしかなかったウダヤンや彼の両親のような人と、そこから逃げるように住みかを移したスバシュのような人、何らかの事情で移らざるを得なかったウガリのような人の対比が際立っていた。そうして移り住んだ土地で今度はその土地に縛られて生きるスバシュ。

あるいはこういう見方もできる。世の中や国家やその土地土地で暮らすルールやしきたりがあり、それを守って生きることに抵抗がある人と、できれば穏便にルールに従って生きたいと望む人と、むしろそういうものの中でしか生きられない人と、ときどきで突き動かされる感情の赴くままに生きる人がいると。

スバシュのように己と家族という相克の中でもがき苦しむ人もまた、そういうこともどこか自己欺瞞に過ぎないんだということに気づきながら生きているのだと思った。

人は土地に縛られて生きるのか、土地のルールに縛られて生きるのか、その土地に暮らす人に縛られて生きるのか、それともそういう一切のものから自由でいられるのか。ぼく自身はどれに該当するだろうかと、物語の後半を身につまされながら読んだ。もちろん簡単に結論が出るような話ではないでしょうが。

冒頭、まだ幼いころのスバシュとウダヤンの兄弟が高い塀で囲まれたゴルフ場に忍び込む場面のみずみずしい描写と幾ばくかの苦味が、読み終ったあとからもいっそうざらついた舌触りとして残る気がする。そしてスローモーションのようなラストシーンのせつなさやるせなさにはとうとう涙を禁じ得なかった。

ただ歴史の荒波をかいくぐって生き延びた人々には、それぞれに明るい未来への希望の光がこぼれる余韻がよかった。主だったすべての登場人物に向けられた著者の温かい眼差しを感じた。ラヒリ文学のひとつの到達点かもしれない。 

低地 (Shinchosha CREST BOOKS)

低地 (Shinchosha CREST BOOKS)