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ジョン・ウィリアムズ『ストーナー』感想~自分だけの宝物にしておきたい生涯の一冊

ジョン・ウィリアムズの『ストーナー』を読む。作品社のこの本の装幀は無垢で飾り気がなく偏屈そうでそのくせどこか気高い。まるで主人公ストーナーの生き方そのもののようだ。ページを繰る指先が震えていたのは、この冬いちばんの寒さが部屋の暖房をほとんど無力にしてしまっていたせいだろうか。

その凍える指先で最後のページを捲っても、もう後がないのだと知ったときの悲しみと充足感。小説の冒頭にはストーナーの一生がわずか数行で要約されている。実際それ以上でもそれ以下でもない彼の人生だったにもかかわらず、いささかも先を読み進める手を緩めることは叶わなかった。

ウィリアム・ストーナーは苦学を重ね母校ミズーリ大学で講師の職に就き、死ぬまで教壇に立ち続けた。終生、助教授より上の地位に上がることはなかった。教え子たちからも同僚の教師たちからもことさら鮮明に記憶されたり敬意をはらわれることはなかった。

ストーナーの生涯を失敗だとか平凡だとか見るべきものがないと断言することに僕は反対です。たしかに波乱万丈の人生でも大出世したり大金持ちになったったわけではないけれど、それなりの成功と(大学の先生になれたのだし)それなりの楽しみを(なにより学問するの楽しみ)手に入れたのだから。

まあそれにしても、英雄でも豪傑でもないひとりのただの英文学者が生まれてから死ぬまでを淡々と綴っただけの小説が、これほど面白く、読む者をぐいぐいと惹きつけてしまうというのは客観的には理解に苦しむだろう。ここはひとえに著者の筆力を褒め称えるほかないのだと僕は素直に思う。

構成に奇をてらうこともなく、穏やかで流麗で美しい文章だった。一文たりとも読み飛ばすのが惜しいほどだった。ついでに翻訳の言葉も平明でやさしい。

それに考えてみたら僕たちの人生も、働くことの厳しさを知り学問することの楽しさを知り恋愛することのよろこびを知り子育ての尊さを知りと、おおむね似たり寄ったりのことで出来ているのだ。そこに身を引き寄せられる何かがあったのだろうと思う。

おしなべて悲しい物語ですよ。恵まれた環境に生まれたわけでもない。才気走ってるわけでもない。しかも世渡り下手。イーディスとの結婚によって大きく道が拓けることもなかったし、むしろ結婚生活は破綻していた。娘グレースと親密な愛を育むことも許されなかった。

ほとんど大学という狭い世界のことしか知らない。その間に二度の世界大戦を経て大学も無関係ではいられなかったが、ストーナーは極力そういうことから距離を置こうと務めた。ただでさえ学びたい知りたいという底知れぬ欲求にはあまりにも時間が足りない短い人生だったのだ。

この小説には大きな山場が3つある。1つめは同僚のローマックスと一人の院生の学位を巡って激しく対立するくだり。いつもは不幸な現実でさえ黙って受け入れてしまうストーナーが珍しく感情をあらわにする場面だ。そのただならぬ迫力と緊張感に心底ハラハラワクワクさせられた。

2つめはキャサリン譲との束の間の逢瀬の場面。はっきりいって不倫現場なわけだけど、なぜか純愛小説を読むがごとくドキドする。ふたりの関係が到底成就するとは思えないことを薄々感じながら、まるで僕自身がふたりをそっと見守る精霊にでもなったような気持ちになるのが可笑しかった。

3つめは、終盤のストーナーの定年退職を巡るまたまた宿敵ローマックスとの一騎打ちの対決と、それに続く(ここはまあ伏せておきますが)展開。

よくスポーツや将棋・囲碁の世界などで、「試合には負けたが勝負には勝った」といったりあるいはその反対のいい方もあるが、まさにストーナーとローマックスの対決はそういう様相だった。

出世レースや処世ということでいえばストーナーはローマックスに敵わなかったかもしれないが、人生という勝負には勝ったのではないかと僕は思いたいし、ストーナーにとってはそういうことですらもはやどうでもいいことだという境地に立っていたのだと思うと、小さな快哉を叫ばずにはいられない。

頑固で偏屈で不公平や不幸をも甘んじて受け入れるが、こと学問に関しては決して自分の筋を曲げないストーナーのような年寄りに僕はなりたいと思う。そういう意味では悲しい物語ではあるが、遙かに後に残る清々しさに強く心打たれたといっていいかもしれない。

ジョン・ウィリアムズ『スト―ナー』(翻訳:東江一紀)はこうして感想を書いて公開などせず、そおっと自分だけの宝物にしておきたい生涯の一冊になった、というのがいまの偽らざる心境です。 

ストーナー

ストーナー