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ポール・オースター『闇の中の男』感想

ポール・オースターさんの『闇の中の男』読みおわる。妻を亡くした書評家の老人が、眠れぬ夜を過ごすために頭のなかに創りだした架空の物語と、夫をイラク戦争で亡くしての失意のどん底にある孫娘と日がな一日映画を見ながら暮らすいっけん穏やかな日常生活とが、代わりばんこで語られる。

老人の頭のなかに創りだされた物語は、9.11もイラク戦争も経験していないもうひとつのアメリカの話で、ただしそこは激しい内戦状態にあってすでにいくつかの州が合衆国政府から独立を宣言しているという。

その仮想の世界も実は二重構造になっており、仮想の主人公は現実のアメリカから内戦状態のアメリカへいきなり放り込まれ、なにがなんだかわからないまま内戦を終結させるためにある男の暗殺を指示される……というようなちょっとややこしいあらすじです。

う~ん、決定的に説明が下手過ぎて自分が情けなくなるけど、オースターさん得意の入れ子構造ですよね。でもわりかしレイヤーは明確だから、読んでる途中でこんがらがってわからなくなるということはおそらくない。べつにそういうことを意図したわけではないのだと思う。

で、これネタバレになるんでしょうが、実はこのいわば老人の脳内物語はふいにというかものすごくあっけなく終わりを告げるのだ。もうひとつのアメリカの物語は、さてこれから面白くなるかもしれないぞ、と思った矢先に唐突に打ち切られる。

老人が自分の頭のなかで創りだす物語に飽きちゃったのか、それともまたべつの物語を創りはじめたのか、あるいはもうそんなこと(空想)をする必要がなくなったかそんな場合ではなくなったのか、それはなんともいえないので気になる人は本を読んでみてください。

僕はね、でもこのあたりのことを逆にリアルだなあと思って。そういうことって実際よくあるもの。だけどオースターさんは作者だから全能で、脳内物語の作者でもある老人も全能で、ふたりはその気になればいきなり無責任に仮想物語を放り出してもいいはずなのに、唐突とはいえ主人公の死という形でまがりなりにも物語に決着をつけているところが重要なんだと思った。

僕らの現実の世界だっていつどういう形で終末を迎えるかわからないわけですよね。世界そのものが隕石衝突みたいにおわるかもしれないし、自分だけがある日この世からそっと退場する(つまり死ぬ)ことになるかもしれない。それはわからない。どっちにしてもおなじこと。

絶対未来永劫つづく物語はないのだ。そして、そこからしかべつの新しい物語ははじまらないともいえる。終わった世界からしか新しい世界ははじまらない。いい換えると、あたらしい物語をはじめるためにはこれまでの物語をなんらかの形で終わらせなければならない。

悲惨な内戦を終わらせるために脳内物語の主人公にある男の暗殺という任務を負わせたのも、その物語自体を終わらせるために主人公を唐突に死なせたのも、ぜんぶそのルールに則ったものだ。

小説のなかでオースターさんが実に簡潔で要を得た考察をしめした小津安二郎の『東京物語』についての話だって、笠智衆と東山千栄子の老夫婦がいきなり右も左もわからない東京に放り出されてはじまった物語が、最後は東山千栄子の死によっておわる。そこからようやく(義理の)娘である原節子のあたらしい物語(人生)がはじまるのだ。

残酷で無慈悲な物語が終わっても、またべつの男の頭のなかでべつの残酷で無慈悲な物語が生まれるかもしれない。おなじように現実世界もひとつの戦争が終わればまた次の戦争(テロ)がくりかえされる。

だけど、僕らはその世界がどんなに残酷で無慈悲だろうと、そこで生きていくよりほかないわけで、たとえどんなに打ちのめされても再び立ち直って生きていくしかないんだよ、そうできるはずだよ、という話なんだと思った。 

闇の中の男

闇の中の男