ヒロシコ

 されど低糖質な日日

映画『ボヘミアン・ラプソディ』感想~どんどんぱ、どんどんぱ!

『ボヘミアン・ラプソディ』を見た。すごくよかった。得もいわれぬ高揚感に体の奥底から震えをきたし、それがどんどんせり上がってくる感覚を抑えられなかった。あふれ出る涙を押しとどめることもできなかった。見終わって正直ぐったりなってしまったが、その疲労感(と同時に空腹感)ですらとても心地よいものだった。

冒頭『Somebody to love』の曲にのせ、ロックバンドQueen(クイーン)のリードボーカル、フレディ・マーキュリーがライブ・エイドのステージに駈け上がっていく。映画はいわゆる円環形式で、ラストにもこれと同じシーンが映し出されるのだけど、ひとつ違うのはファーストシーンのフレディがひとりぼっちだった(彼にしかスポットが当たっていない)のに対して、ラストシーンのフレディーの傍にはバンドメンバーたちの姿が映りこんでいたことだ。

この演出、カメラワークひとつとってもそうとう作りが凝っていてグッとくる。『Somebody to love』の歌詞にある、“ 僕に愛すべき誰かを見つけてくれないかい? ” というのは、いってみれば映画を貫く重要なテーマでもあったから、つまりはフレディは彼の半生をとおしてそういう愛すべき誰かを見つけたという証でもあったのだと、カメラが物語っていたわけだ。

もともと出自や容姿にコンプレックスを抱えたひとりの孤独な若者に過ぎなかったフレディが、メアリー・オースティンと出会い恋に落ち、ブライアン・メイやロジャー・テイラーやジョン・ディーコンと出会いバンド Queen(クイーン)を結成する。映画はそんな彼らが自分たちの才能と才覚と努力と周囲の仲間の協力を得て、遂にはスターダムにのし上がっていくさまを描いている。

クイーンの熱心な支持者にとっては、それぞれのシーンでの楽曲の選曲、アルバムの制作秘話、メンバー個人やグループにまつわるエピソードの真偽、その時系列に納得できないものがあるやに聞く。だけどそもそも『ボヘミアン・ラプソディ』がドキュメンタリーではない以上、史実の隙間にフィクションが滑り込む余地はいくらでもあるだろう。

まして2時間強の映画のなかに、ひとつのバンドやひとりのアーティストの半生を投影しようとする時点で、なにかしらの取捨選択や意図的な並べ替えがなされるのはこれは致し方ないことだ。逆に言えばそれだけ自由度があるということでもある。


その自由度は、なにも制作者側だけに与えられた権利ではなく、観客の側にも等しく与えられているのだと僕は思う。つまり目の前で展開されている映像と、そこには映し出されない映像の向こう側を僕らは自由に想像することができるのだ。だいいち僕らは、マフィアのことやカーボウイのことや宇宙人のとこなどなにも知らなくてもそのての映画を十分楽しんでいるんだからね。

ついでにいえば、『ボヘミアン・ラプソディ』はQueen(クイーン)ないしフレディ・マーキュリーが世界的なアーティストであるという1点を除けば、あとはセクシャリティーの悩みだったり、出自や容姿のコンプレックスだったり、家庭内の葛藤だったり、友だちや仕事仲間との軋轢だったり裏切りだったり、多かれ少なかれ僕らが日頃直面している普遍的な問題がテーマのよくある映画なのだ。

だって生活態度について喧しく言う父親との確執なんて、誰しもが経験する話でしょ?

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本当のフレディは(他のバンドメンバーたちも同様)映画のなかの彼(彼ら)よりもっとクズ野郎で、私生活はもっとドロドロだっただろう。でもフレディはもうこの世にいない(エイズで死んだので確かめようがない)し、比して残りのメンバーは存命でこの映画の監修に当たっている。実際のところ、観客がフレディのことを疎ましく感じるぎりぎりのところで美化しているふうで、その匙加減が絶妙だったなあとは僕個人は思った。

恋人メアリー・オースティンと結婚したフレディだったが、自身バイセクシャルであることに気づいて、メアリーとの仲は次第に気まずいものになるのだ。結局、自宅のすぐ隣にメアリーの新居を作り、ふたりは別居生活を余儀なくされるわけだが、夜ごとフレディはメアリーの寝室を見上げながら、部屋のスタンドの灯りを点けたり消したりして彼女の愛情を確かめずにはいられなかった。

ラスト21分間といわれるライブ・エイドのシーンがもちろん圧倒的な迫力で僕らを感動の渦に巻き込んでくるのは言うまでもないが、 この映画が素晴らしいのは、そして映画のなかで僕がいちばん好きなシーンをひとつあげるとすれば、躊躇なくこのスタンドの灯りを点けたり消したりするシーンということになる。そのせつなさたるや。

スコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』のなかで、ギャツビーが夜な夜な、自分の豪邸から入り江を隔てた反対側にあるデイジーの邸の桟橋にともる緑の灯を眺める描写を僕は思いだして、もうそれだけでこの頃のフレディの孤独と苦悩が手に取るようにわかる気がした。

ライブ・エイド前のQueen(クイーン)は、ありがちなメンバー間のゴタゴタで実質解散同然となっていたらしい。サッカー選手でいえば、試合感をなくしている状態だった。直前のリハで喉の調子が本調子に程遠いフレディの様子が映画にも出てくる。だけど彼は仲間たちに「必ず仕上げるから」と宣言し、ライブ本番には宣言どおりきっちり仕上げてきた。

当日のステージ上で、フレディが歌い出した途端他のメンバーたちがそのことを素早く感じ取って、メンバー間で互いに目配せし合うあうんの呼吸がたまらなくよかった。それにしても映画を見たあとあらためてライブ・エイドの映像をYouTubeで見直してみたら、その完璧な再現性には驚くべきものがあったなあ。

些細な話になるが、フレディの弾くピアノの上に置かれたドリンクのカップの数や種類にまでこだわっている感じがとてもよく出ていてある意味笑っちゃった。演奏や音声はまあ当時の本物を使用しているのたろうけれど、ステージ上でのパフォーマンスはそれぞれの役者さんたちが完全にコピーしている。見事なものである。

初めてのレコーディング風景や、映画のタイトルにもなった『Bohemian Rhapsody』製作時の、ガリレオ~♪ を収録するくだり、『We Will Rock You』の例のあの “ どんどんぱ!”  誕生の秘話等には、嘘か真か、小さな言い争いですらユーモアたっぷりに描かれていて笑えるシーンがたくさんありめちゃくちゃ楽しかった。

フレディのお父さんが「さあテレビつけてくれ」というところからの「ライブ・エイドでの『Bohemian Rhapsody』、からの『RADIO GA GA』(レディ・ガガの名前の由来になった)~『We are the Champions』で締めくくる21分間の圧巻のパフォーマンスにはただもう黙って打ち震えているより他なかった。超面白かったです。大満足です。