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映画『天気の子』完全ネタバレ感想~『君の名は。』との比較は避けては通れないだろう

新海誠監督の最新作『天気の子』を見てきた。前作『君の名は。』同様ふたりの主人公が十代の少年少女だというので、おじさんの僕としてはもうそれだけで気後れしてしまうところがあったが、そこはどーんと開き直って居直り強盗になった気分で見てきた。ちょっと何言ってるかわかりませんが。

「あの光の中に、行ってみたかった」
高1の夏。離島から家出し、東京にやってきた帆高。
しかし生活はすぐに困窮し、孤独な日々の果てにようやく見つけた仕事は、
怪しげなオカルト雑誌のライター業だった。
彼のこれからを示唆するかのように、連日降り続ける雨。
そんな中、雑踏ひしめく都会の片隅で、帆高は一人の少女に出会う。
ある事情を抱え、弟とふたりで明るくたくましく暮らすその少女・陽菜。
彼女には、不思議な能力があった。
(公式サイト https://tenkinoko.com/ あらすじ) 

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以下ネタバレの感想ですが、映画を見ていない人には何のことかさっぱりわからない内容になっていると思います。

 

『君の名は。』と『天気の子』の比較は避けて通れない

空前絶後の大ヒットを記録した『君の名は。』から3年。新海さんにすれば何かにつけ前作と比較されるのは本意ではないだろうけれど、なにしろ待ちに待った最新作なだけにこれは避けて通れないだろう。

『天気の子』の物語は行儀よく時系列に沿って展開する。ほとんどシングルイシューなので単純明快、とても見やすかった。それを肯定的に捉えられた人には『天気の子』の方が面白いと感じるだろうし、そうでない人にしたらやや物足りなさを覚えたかもしれない。僕はどちらかといえば後者でしたね。

思うに、『天気の子』と『君の名は。』はとてもよく似た物語だ。主人公の男の子が不思議な能力を持った少女と出会い、共に手を携えセカイのカタチを変える。ただ僕として解せないのは、どうして『君の名は。』の後が『天気の子』なのかという点だ。新海誠フィルモグラフィーでいうと、本来両者は製作されるべき順序が逆ではなかったのかなあと思うのだ。 

あくまで印象論になるが、『君の名は。』を堂々とした風格の長編小説に喩えると、『天気の子』にはどちらかといえば中編小説の趣がある。わかりやすくシングルイシューなのは前述のとおりで、代わりに登場人物たちの背景がほとんど語られない。といって短編小説ほどエッセンスが凝縮されているわけでもない。見終わって幾ばくかのモヤモヤが残る。

果たしてもし製作順序が逆だったなら、『天気の子』で僕が抱いたモヤモヤ感とか物足りなさは、『君の名は。』であるいは昇華されていたかもしれないなあと思った。そう思ったらちょっと残念な気がした。なぜ順序が逆だったのか。いっそなぜ『天気の子』を『君の名は。』とは全く異なるテイストの物語にしなかったのか。新海さんに会える機会があれば是非その点を尋ねてみたい。

 

雨の描写ことに都会の雨の描写の美しさが半端ない

まずいっとうはじめに、絵の綺麗さにはどうしたって触れないわけにはいかないだろう。というか凄まじいまでの精緻さである。もはやアニメである必然性があるのか、実写でいいじゃないか、とすら思うほどだ。特に雨。空から降ってくる雨のみならず、アスファルトの地面を叩きつけ跳ね返る雨の描写や、サッシ窓を滑り落ちる雨粒のリアルさにはほとほと舌を巻いた。

それから雨の都会の風景の美しさ、具体的には新宿や池袋の町の美しさにも驚かされた。見慣れた町の本物はむしろ薄汚れて見えるような風景が、新海さんの魔法にかかると見惚れてしまうくらい美しい都市に変貌するのだ。ただの風景ではないそこに暮らす人々の息遣いが感じられる構図や切り取り方が、本物以上にリアルだったせいもあるだろう。

さきほどの問いの答えになるとよいのだが、これが実写では果たせないアニメの手柄なのだろうかとも思う。プロダクトプレイスメントがウザくなる一歩手前の猥雑さを、美しい雨が洗い流すさまを見られただけでもよかった。

 

Weathering with you というサブタイトルの意味

『天気の子』のサブタイトルは “ Weathering with you ” である。英語の weather には「天気」という意味の他に、「(嵐や困難を)乗り越える」という他動詞としての意味があるという。あとに “ with you ” がつくことからこの場合「君と困難を乗り越える」が適当だろう。ダブルミーニングでなかなか面白いサブタイトルだ。

そうやってみると、この映画がただの天気にまつわる話ではなく、何かしらの困難を乗り越える話だというのがわかる。誰が? 主人公のふたり帆高と陽菜が。困難とは何か? 彼らを縛り付けようとする大人社会のがんじがらめのルールや欺瞞のことだ。後述するが、ふたりは陽菜の不思議な能力のせいで逃れられない運命にも立ち向かわなければならなくなる。

そもそも映画では多くを語られなかったが、帆高が家出して東京にやって来たのだって単に東京への憧れがあったからだけではなく、おそらくはフェリーでしか行き来できない離島の閉塞感とか、はじめてスクリーンに登場したときの彼の頬にあった絆創膏からも察せられるように、あるいは父親か誰かからの暴力的な行為があったのかもしれない。

一方の陽菜にしても、映画の冒頭で母親が(たぶん)死んで、まだ小学生の弟とアパートの部屋でふたり暮らし。父親の影はいっさいない。アルバイトをしながら生計を立てているようだけれど、もちろん彼女のアルバイト(ファストフード)代だけですべてが賄われるわけもなく。こっちに関して僕の見た限りにおいてはほとんどノーヒントだった。

ただ、不思議な能力を身につけてからの陽菜が首に巻いているチョーカーが、母親が死の床で手首に巻いていたブレスレットだったことから、陽菜の母親にも陽菜と同じ不思議な能力があって、母親はその能力のせいで死んでいったのではないかとは想像できる。だとしてその能力を仕事にしていれば、それなりの貯えがあったかもしれない。

そして現実に起きているさまざまな児童虐待のニュースを持ち出すまでもなく、そのての公的機関は得てして肝心な時に相互連携が不完全で、被害児童が死ぬまで事実上ほとんど無策だったということも少なくない。新海さんがそういう社会批判をドラマ設定に込めたのかはわからないが、環境問題については強い批判精神をこの作品は表明しているわけだから、あながちない話ではないなと僕は思う。

いずれにしても、社会の中で何不自由なく何の問題意識も持たずに生きている少年少女とは違い、帆高も陽菜も、大人社会の中に混じって生きていくことの困難さや窮屈さと闘い続けているのだ。一方でそれをガキっぽい青臭いと嘲笑するか完全にスルーするであろう同年代の連中ともきっと意識の底で闘っているのだろう。

 

そもそも帆高はなぜ家出したのかという問題

『天気の子』の物語を推進していくのは帆高の行動力だ。彼が動き始めることで陽菜の能力も開花していく。そのスタートの行動が帆高の家出であり、家出をして東京に向かうフェリーの中で後々お世話になる須賀とも出会う。ところが肝心の帆高がなぜ家出をしたのかという説明がほとんどなされないのだ。これにはちょっと面食らった。

モノローグを使ったり回想シーンで見せたりせず(モノローグも回想シーンもあるにはあるが抽象的)、帆高がネットカフェや須賀の事務所で食べるカップラーメンの蓋の重石がわりに載せるサリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』だけが唯一のヒントだった。これをおしゃれと感じるか強引と感じるか。僕はでもそのどちらでもなく、家出の理由と『キャッチャー・イン・ザ・ライ』はやや「つきすぎ」かなあと思った。

ふだんポケット歳時記を携帯して下手な俳句を詠むのですが、俳句では季語とその他の部分がまったくかけ離れていては良い俳句とは認められないし、かといってふたつが容易に想像できる(連想できる)関係性にある場合や、季語以外の部分が季語の説明だけになっている場合は「つきすぎ」と言って、これもダメな句の典型として評価されない。

ご存じ『キャッチャー・イン・ザ・ライ』は、高校を退学になった17歳の少年ホールデン・コールフィールドくんが家を出てニューヨークの街を彷徨う物語である。彼は帆高と同じように(というか帆高がホールデンくんと同じようにだけど)、大人社会の欺瞞や虚構を憎みそれに強く反発する少年なのだ。

つまり、帆高の愛読書がもし『グレート・ギャツビー』だったら帆高の家出の理由があまりにも想像つかなすぎるし、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』だとあまりにつきすぎて逆に面白くないというか、ああやってるなあ、とやや底が透けて見えてしまった。

破滅型の主人公が太宰の『人間失格』を肌身離さず持ち歩いているようなものだもの。では何の本だったら納得できたのかというとそれも思いつかなくて申し訳ないが、案外新海さんもベストチョイスが思いつかなくて『キャッチャー・イン・ザ・ライ』にしたのかもしれませんね。

 

物語の中に拳銃が出てきたら、それは発射されなくてはならない

帆高が新宿の歌舞伎町でひょんなことから拳銃を拾ってしまい、彼はそれをお守り代わりに持ち歩き、映画の中で実は二度発砲してしまう。まず、ふつう拳銃拾うか? という疑問と、そんなに簡単に撃てるの? という疑問と、一度ならずも捨てた拳銃が二度目のときもまだその場所にあり(まあそれはいいとして)、またそれをタイミングよく拾って撃つか? という二重三重の疑問がどうしたって拭い去れない。

偶然にしてはあまりに出来過ぎているし、あまりに唐突に物語の中に拳銃が出てくることにも戸惑うし、拳銃を拾った段階で、ああこれ伏線回収できっとあとから撃つな、と容易く想像できてしまうしで、それ以降のストーリーが気になって集中できなくなるだろうなあ、とむしろそっちの方が危惧された。

だけど結論から言うと、途中から拳銃のことすっかり忘れていました(一発目の発砲のときも二発めの発砲のときもどっちも)。なんか地味にショックというか、オレ馬鹿なんかなあ、記憶力悪いのかなあ、とちょっと落ち込んだりもした。他の人はそんなことないんでしょうけど。新海さんのストーリーテリングがそれだけ上手かったというふうに思いたい。どうなんでしょうね。自信ない。

「チェーホフがこう言っている」とタマルもゆっくり立ち上がりながら言った。「物語の中に拳銃が出てきたら、それは発射されなくてはならない、と」
「どういう意味?」
タマルは青豆の正面に向き合うように立って言った。彼の方がほんの数センチだけ背が高かった。「物語の中に、必然性のない小道具は持ち出すなということだよ。もしそこに拳銃が出てくれば、それは話のどこかで発射される必要がある。無駄な装飾をそぎ落とした小説を書くことをチェーホフは好んだ」
(新潮文庫版:村上春樹『1Q84』BOOK2前編p39-40)

いわゆる「チェーホフの銃」として知られる文学上のメソッドは、ロシアの劇作家アントン・チェーホフに由来する。僕がこの言葉を知ったのは上に引用した村上春樹さんの小説で、村上春樹さんは『海辺のカフカ』でも同様の表現を使っているらしいが、そっちは僕は覚えがないし、その本自体もいま手元にないので確認できない。

新海さんの頭の中では帆高が拳銃を拾った理由も(偶然なのか)、一度捨てたはずの拳銃が二度までも帆高の手元に戻ってきたのも全部明確に説明がついていることなのかもしれないけれど、残念ながらそれを理解するヒントは映画の中に発見できなかった。僕が見落としただけかもしれませんが。

まあでも後付けで言えることは、単なる少年の家出捜索だけでは警察組織の中の生活安全局のような部署の担当になってしまって刑事課の刑事さんが出張ってくる事件とはならないので、拳銃が発砲でもされないことにはどうにも物語が膨らまないという理由はあっただろう。ある意味、帆高の拳銃は陽菜の不思議な能力と対になる存在で、物語を推進する(陰の)原動力にもなっていたのだから。

それに、帆高が陽菜を助けるため警察署から脱走し(というのも俄かには納得しがたい話ではあるが)、山手線の線路を疾走するシーンを見ていて、そうかこれは『キャッチャー・イン・ザ・ライ』であると同時に、『スタンド・バイ・ミー』でもあったのかと妙に合点がいった。

オレゴンの小さな町に住む少年たちが線路づたいに死体探しの旅に出るという、ひと夏の冒険を描いたスティーヴン・キングの短編小説だ。むしろ映画版の方がその主題曲とともに有名かもしれない。これにもちゃんと拳銃が出てくるし、チェーホフのメソッドに倣い主人公は忘れることなく発砲する。

あとこれ全然関係ないけど、『天気の子』とチェーホフの言葉に触発されて「雨に濡れた子猫は拾っておけ」という言葉をたったいま僕は思いついた。その意味は「雨に濡れた子猫はとりあえず拾っておけ」ということだ。映画を見ればわかるよね。かっこいい男子はだいたいそうするから。

 

須賀はなぜフェリーに乗り合わせていたのか、なぜ泣いていたのか

帆高と陽菜の他の主要登場人物といえば須賀圭介だ。オカルト系のライターで個人事務所のオーナーでもある。家出した帆高とはフェリーの中で出会い、その縁で東京での寝食とアルバイトを提供する。なぜ須賀があのフェリーに乗っていたのかについても、やはり新海さんの中では説明がつくのだろうがその理由がわれわれ観客に提示されることはなかった(たぶん)。

おおかた取材ということなのだろうけど、たとえば帆高が陽菜に出会ったのがあながち偶然というわけではなく、『君の名は。』の三葉さんと瀧くんの関係のように運命によって互いに選ばれたふたりだったと仮定したら、帆高のルーツでもある離島には(後述するけど)須賀の奥さんの死とも係わる何かしらの因縁があったとも想像できる。

まあ、そうとう都合よく解釈をすればの話だけど。そんな須賀は本質的なところでは帆高と同じように、童心というかいわゆるピュアな心を失わずに持ち続けている一方で、諦めとか言い訳とか無関心とか、大人としての常識に縛られがんじがらめになっている人の代表としても描かれている。

警察から逃走した帆高の行方を捜して須賀の事務所を訪れた安井という刑事が、「晴れと引き換えに消えた少女にもう一度会いたいと少年は言っていたそうだが、そうまでして会いたい人がいるのは羨ましいなあ」というようなことを言ったあとで、「大丈夫ですか? あなた泣いてますよ」と言うのだ。その泣いているあなたというのが、外ならぬ須賀なのです。

須賀がその時なぜ泣いたのかを考えるのはそう難しいことではない。須賀の事務所でアルバイトをする女子大生の夏美からは、須賀と帆高はとてもよく似ているとくり返し言われる。須賀にはかつて事故で死んだ奥さんがいたようで、案外いまでも須賀は奥さん一途である。例えばその奥さんも実は陽菜と同じ不思議な能力をもつ女性だったとか。その能力のせいで死んでいったのかもしれない。

まだ幼い須賀の子どもは義理の母親に引き取られ、めったに会う機会を与えてもらえない。その子は(女の子)喘息もちで、雨の日は外で遊べない。などなど、それらしきヒントが映画の中に散りばめられていた。須賀自身は奥さんの運命を変えてやれなかった。なのにまだ16歳の帆高はそれをやろうと必死にもがいている。須賀は帆高の中にかつて選ばなかったもうひとりの自分を見たのだろう。

僕には須賀の姿が(ダジャレじゃないですよ)『君の名は。』の町長、宮水三葉のお父さんの姿とダブるのだった。いや姿格好が似ているということではなくて、物語の中で与えられた役割分担がそっくりだと思った。どちらも若い主人公たちの無謀な行動を諫め遮ろうとする楯には違いないのだけれど、最後の最後に主人公たちの志を尊重して自らの決断を翻す。

「お前たちがセカイの形を変えたなんて自惚れんなよ」「セカイなんてはじめから狂ってんだよ」という台詞(だいたいそんなふううな)はかっこよかった。だらしないけど情に厚く、仕事はできるんだかできないんだかよくわかなくて、松田優作さんとかショーケンさんが存命だったらこういうタイプの役が似合っただろうなあいう大人の男の色気を感じる。

あとついでに。少年のひと夏の物語に夏美というせっかく年上の女性が登場するのだから、もう少しドキドキする場面があってもよかったのになあと惜しまれる。でもそれだと『君の名は。』の瀧くんのバイト先の奥寺先輩と同じキャラになっちゃうなあ。やっぱり『天気の子』と『君の名は。』は比べれば比べるほど相似形の物語だ。

 

陽菜の不思議な能力について、そしてラストの賛否について

陽菜の不思議な能力についてここまで詳しく書いてこなかったのは別にネタバレを意識してのことではない。そんなつもりはさらさらなくて、ただたんに不思議な能力というキーワードで引っ張っていくのが面白かったから。でもそれももう飽きたのではっきり書くけど、陽菜は「天気の巫女」なのである。

「天気の巫女」なんてはじめて聞く言葉だけど、要するに「100パーセント晴れ女」と言い換えてもいい。短い時間のそれも狭い範囲に限られるが、雨を晴れに変える能力を持っているのだ。古来より「雨は神様からの贈り物であり、それが途絶えるのは神の罰である」とする観念があるそうで(wikipedia)、だとすれば陽菜の能力は神様に逆らう行為そのものである。

現実の世界では「雨乞い」という言葉ならときどきテレビニュースなどで耳にする。いつまでも日照りが続く地域で農作物の生育に影響が出そうになると「雨乞い」的な行事は行われる。大昔では人柱という生贄が神様に捧げられることもあったようだ。「雨乞い」ならぬ「晴れ乞い」にもやはり人柱が必要で、その役割を担うのが天気の巫女ということになる。

「晴れ乞い」をすればするほど陽菜の体は徐々に透明になっていき、最後には消えて(死んで)しまうのだ。帆高にはそれを指をくわえてやり過ごすことができなかった。刑事たちの追跡も振り切り須賀の制止も訊かず、挙げ句には二度めの拳銃発砲までやらかして、ついには空の上の彼岸(あの世)にまで陽菜を追いかけ彼女を此岸(この世)に連れ戻そうとするのだった。この辺りが映画のクライマックス。

「愛をとるか? セカイをとるか?」の二者択一。というか帆高にとっては唯一絶対の一択でしかなかったが。この時点で帆高になりきることができていればオーケーなのだが。せめて須賀の心情に寄り添うことができていれば。

正直言うと僕はいまいち乗れなかった口でした。誰かの犠牲の上に成り立っているセカイの安寧が、本来望まれるものではないことは僕にもわかる。だけど現実には、不特定の誰かの犠牲の上に成り立っている安寧を唯々諾々と受け入れていることなんて山のようにある。福島の原発事故の後処理だってそうだし、沖縄の基地問題だってそう。

だけどひとたびそれが特定の誰か、愛する人とか、になるとまた別の話だ。と、誰しも思うよね。本当? 映画の中では帆高は陽菜を助けたいと強く願っている。せめて一目だけでももう一度陽菜に会いたいと願って無謀な行動に出る。でも彼岸に渡ってしまった陽菜を助けに行くことは、自分の死をも覚悟するということなのだ。その勇気が僕にあるだろうか?

というような気宇壮大なテーマをね、僕は映画を見終わったあとから理屈として考えたわけで、残念がら心の底から沸き上がった感動とかいうものとは少し離れた次元で理解に努めようとしたことなのだった。まあ総じて、面白くなくもなくもなくもなくもない映画でしたが(陽菜に倣って言えば)。

 

その後

映画ではスキップした3年の間に東京では雨が降り続いている。その結果、東京の3分の1が水没したのだそうだ。「(東京は元々ほとんど海だったから)その頃の東京に戻っただけさ」と倍賞千恵子さんは気丈に言った。そもそもはじめから東京には雨が降り続いていたのだから、遅かれ早かれそうなるのは自然の運命だったはず。帆高や陽菜がセカイのカタチを変えたのではなく、長い歴史の中で人間によって変えられてしまったものが元に戻っただけなのだ。

運命に従ったのが『君の名は。』で、運命に逆らったのが『天気の子』のような言われ方をされるとしたらそれは間違っている。『天気の子』もあらかじめそうなることになっていた自然の運命を、すったもんだの末、結果的に受け入れる道を選んだということなのだから。

映画の感想はここまでですが、でも考えてみると「天気」って「今日はお天気ですよ」というとそれは一般的に晴れのことを言い、天気が良いとか悪いとかいう言い方をするときは、良いが晴れで悪いが雨ということと同義なんだよね。なんか不思議。それ誰が決めたの? という話でした。

あともうひとつ。陽菜がカルト集団にさらわれて晴れ女の能力を利用されそうになり、一方拳銃を巡って警察とカルトの両方から追われる帆高が、陽菜をカルトと人柱から救い出す話。というのを思いついたんだけど、そうすればもう少し偶然が必然になっていたかもしれないなあと。あ、『1Q84』と似た物語になってしまうかも。というか、新海さんに村上春樹さんの小説をアニメ映画化してほしい。『ノルウェーの森』とか。

新海誠監督作品 天気の子 公式ビジュアルガイド

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