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映画『君の名は。』完全ネタバレ感想~運命とか結びとか片割れとか

新海誠監督の最新作『天気の子』の劇場公開を前に、Amazonプライムビデオで『君の名は。』を見た。その感想を二、三書いてみたい。といってもこの作品自体は3年前、劇場公開されるやいなやたちまち話題を呼び社会現象にまでなったものだ。いまさらあらすじや映画の基本情報をおさらいしてもしょうがないと思うので、ばっさり省かせてもらった。

僕はと言えば、あれだけ映画が大ヒットしたにもかかわらずなぜか食指が動かず、ついつい未見のまま過ごしてきたわけだ。そのことにいま後悔がないと言えば嘘になるけど、この作品のテーマのひとつが「すべてのことはあるべきところにおさまる」だとしたら、映画との出会いもまさに今がそのタイミングだったのかなあと良いふうに考えることにしている。



まず結論から書くと、とっても面白かった。欲を言えば僕がもっと若い頃、この映画の主人公たちと同年代の高校生くらいの頃に見たかったなあというのは真っ先に感じたことだ。そうすればいたずらに感傷的なバイアスがかからず、より鮮明に作品世界に浸ることができたかもしれない。ただまあそれも仮定の話だし、何事も遅すぎるということはないから、二重の意味で時期を逸した事実はこの際あまりネガティブに捉えないようにしようと思う。

さて『君の名は。』がいったいどんな映画なのか、それを一言で説明するのよほど難しい。恋愛映画と言えば恋愛映画だし、青春映画だといえば青春映画だし、ファンタジーの要素をたぶんに含んだSF映画(とくにタイムリープもの)だとも言える。少年少女が大人に成るための通過儀礼の物語なんだよと言えばそういう側面もあるだろう。民俗学的な見地から一地方に伝わる民間伝承をモチーフにした映画、あるいは広義の意味でのディザスタームービーでもある。

そしてなによりいちばんの特徴は、いっそ具体的な作品名を出すけれども、大林宣彦監督の出世作『転校生』にインスパイアされた映画であることは、これはもう120%疑う余地がないだろう。だけどそのことについては僕なりに別の解釈があって、『転校生』が男女の心と体が入れ替わることによってドラマが生まれた映画だとすれば、『君の名は。』はその男女の入れ替わりがある日パタリと止まってしまったことからむしろ本当のドラマが始まるのだった。

入れ替わりが止まった原因は言うまでもなく、彗星の片割れである隕石が三葉さんの住む時空の糸守町に墜落したからであり、それによって不幸にも三葉さんは命を落としてしまう。一方の瀧くんが住む時空の東京では普段と変わらぬいつもどおりの時間が淡々と流れる。実は瀧くんは3年前の三葉さんと時空を超えて入れ替わっており、三葉さんの時空で隕石が落ちた後から、必然的に二人の入れ替わりがなくなったのだった。この設定のアイデアは『君の名は。』の良くも悪くも最重要な肝であり、映画に特別なユニークさをもたらすと同時にその内容をやや複雑なものにした。

もっとも名作『 めぐり逢い』の時代から遠く隔たった現代において、スマホがあるのに年頃の男女の心と体が入れ替わりすれ違う面白さを生み出すためには、この3年の時差というのはある意味必須アイテムだったわけで、『転校生』の入れ替わりによる互いの人生が反転する面白さ、というか古来より連綿と続く「とりかへばや」の物語だけでストーリーの根幹を支えていくことにはさすがに無理があったというべきだろう。

果たして製作者の目論みどおり、瀧くんがおぼろげな記憶を頼りに三葉さんに逢いに行くあたりから物語の構造そのものがパラダイムシフトし、そういう方向に向かっていくのか! とそのダイナミックな舵取りに僕は驚かされた。死んだはずの三葉さんの命を救うため、糸守町の人々を隕石の墜落から守るため、瀧くんはかつて三葉さんの体と入れ替わっていたときに口噛み酒を奉納した宮水神社のご神体がある場所へと歩を速める。

ここからいわゆる歴史の改変が行われるわけだが、過去に干渉された世界は必ず修復されるという理論が正しいのだとすれば、映画の結末はパラレルワールド(並行世界)への移行がなされたものと考えるべきなのだろう。そうでなければ、あれもこれもすべては歴史が織り込み済みだった、という解釈が当てはまるだろうか。いずれにしてもハッピーエンドな結末で僕個人としてはホッと安堵した。悲しい話は見たくない。

ついでに言っておくと、このハッピーエンドの結末といい、作品全体に通奏低音のように流れている運命論的な話が僕はわりと好きだ。逆にすべての出来事が運命というご都合主義に絡めとられてしまうことに批判的な人もいて、その言い分もまあわからなくもないけれど、運命論ってどこかロマンチックでいいよね、と僕などは無邪気にそう思う。ことにこの作品に至っては、過去に起こった(悲劇の)運命を変えようと必死に抗った結果、その抗うことすらあらかじめ定められた運命だった、というアイロニーともつかぬとにかく無敵理論がすごい。

ちょっと具体的に書くと、三葉さんを生んだ宮水一族には彼女のお母さん(二葉)お祖母ちゃん(一葉)と代々受け継いだ入れ替わりの能力があって、その特殊な能力はどうやら隕石の衝突から糸守町の人々を守るために備わったものらしいのだ。お母さんもお祖母ちゃんも過去に三葉さん同様入れ替わりを体験し、その体験が有形無形に三葉さんの能力に繋がっている。例えばお母さんと入れ替わったことがある三葉さんのお父さんは、その記憶をあらかた失ってしまっているが、神官を辞めていまは糸守の町長として隕石の落下から町民を避難させる義務と権限を担う立場にある、とか。

そうなることもすべて運命で、それぞれが、それぞれの世代に、それぞれの立場でその時どきにやるべきことを彼ら彼女らの「運命」に従って為した結果が、つまり時空を超越して糸守を隕石の落下から救ったのだ。と、あらためて文字にしてしまうとなんだか身も蓋もない話になってしまいそれは僕の本意じゃないけどね。

お祖母ちゃんが最後の最後に三葉さんの説得を信じなかったのも、お祖母ちゃんはそれは自分の任じゃなく、三葉さんのお父さん、若くして死んだ娘・二葉の夫である町長にしか出来ないこと(=町民を一斉避難させること)だと悟っていたからじゃないかなあ、ということも些細なことだけど言っておきたい。

あと、「糸を紡ぐことも、人と人が繋がることも、時間が流れることも、水や酒や米が人の身体に入ってくるのも、すべてが『結び』で、神様のおかげである」というようなニュアンスの台詞を三葉さんのお祖母ちゃんが語るところ、ちょっと神妙な気持ちになってジーンときた。三葉さんの体にインした瀧くんが町長を説得しようと町長室に乗り込み、埒が明かないとみるやデスク越しに町長のネクタイにつかみかかった瞬間、「お前は誰だ?」と三葉さん(瀧くんイン)に向かってお父さんが問い質す。あれもネクタイで繋がった瞬間お父さんには本物の自分の娘じゃないことがわかったのだ。

お祖母ちゃんの台詞でいえば、「片割れ(かたわれ)時」とか「黄昏(たそがれ)時」という言葉について説明するシーンも聞いていてほんと心地よかった。人ならざる者に出会う時間、だからこそ「片割れ時」だけは死んだはずの三葉さんと生きている瀧くんが出逢うことができたんだとあとから合点がいく。オカルト的なニュアンスではなく、むしろ儚さとかせつなさとかこの世や会えない人への未練とかそういうものを僕は感じた。「片割れ時」(昼と夜の間のどちらでもない時間)には誰かの満たされない思いがこの世には溢れているんだなあと。

きりがないので最後に。瀧くんが三葉さんに「目が覚めても忘れないように名前書いとこうぜ」と言って互いの手のひらに自分の名前を書くところもベタだけどよかった。というか、実は瀧くんは三葉さんの手のひらに自分の名前ではなく「すきだ」と書いていたことにあとから三葉さんが気づくシーン。「これじゃあ名前わかんないよ」と三葉さんが怒ってみせるシーンだ。おじさん(僕)もきゅんときた。アニメで見るからかそれほど気恥ずかしい感じにもならず。でもあれ、三葉さんも瀧くんの手のひらに同じように「すき」と書こうとしたんじゃないっすかね。途中で「片割れ時」が終わっちゃったふうだけどさ。名前は忘れても誰かのことを好きだったという感情はなくならないかもしれないし。

ハッピーエンドの結末は、唐突に青春の終わりがやってきたみたいな一抹の寂しさを覚えた。そうかそうか、『君の名は。』は自分の片割れを探す物語だったとも言えるのか。