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『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』完全ネタバレ感想~僕が見たいのはこんなゴジラじゃない!

『ゴジラ  キング・オブ・モンスターズ』見たんだけど、う~ん、微妙でしたね。面白くないことはないが、なんだろうちょっと……というやつ。その要因をつらつら考えてみたので、自分の頭のなかを整理するつもりで項目別にいくつかまとめてみた。あらすじや作品情報はありません。あ、完全ネタバレですのであしからず。

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都市を破壊するゴジラを無邪気には見ていられない

断わっておくと、これは映画の問題というより僕の心の問題である。いささかナイーブに過ぎる話にもなるかもしれないが、阪神淡路大震災や東日本大震災とそれに続く数々の大規模自然災害を経た今となっては、僕自身、怪獣たちが理不尽にも都市や農村を破壊し、(おそらく)そこに住むであろう人間たちを蹂躙していくさまを、もうかつてのように中二病的な無邪気さでは見ていられなかったというのがあると思う。

だってあれだけ毎日のように現実の凄まじい自然の猛威を(テレビ映像をとおして)目の当たりにし、なすすべもなく命を落としていくたくさんの人々や悲嘆にくれる彼の人の家族の姿を僕の瞼の裏の暗闇は記憶していったのだ。怪獣かっこいい! ビルや道路が破壊されていくの超リアル! アメリカ空軍もまったく歯が立たないや! とばかりは能天気によろこんでいられなかった。そこにカタルシスを感じられなかったのだ。

となるともはや『シン・ゴジラ』のようなスタイルでしか僕は怪獣映画そのものを受け入れられなくなってしまったのだろうか。いやいやいや、まあ正直なところを書けば、ゴジラもキングギドラもモスラもラドンも今回登場する怪獣たちの造形はいかにもアメリカっぽくマッチョでスタイリッシュ、痺れるくらいかっこよかった。ラドンがビルの谷間を低空飛行するところなんて怪獣ファン垂涎もののシーンだったことは間違いない。

もっとも僕的にはモスラの造形については若干の不満があって、できればもう少しオリジナルに近いふくよかさ(丸み)があっても良かったかなあと思わないでもなかったですが。

 

渡辺謙さんはなぜ核爆弾を運ぶ役を拒否できなかったのだろうか

詳細な説明は省いて結論だけどんどん書いていくけど、登場人物(怪獣の方ではなく人間の方、念のため)がみんなどんな目的でどのような行動規範で動いているのか分かりにくかった。まず我らが渡辺謙さん。オキシジェン・デストロイヤーで再び眠りについてしまったゴジラにエネルギーを注入するため、謙さん演じる芹沢博士は海中深く核爆弾を運び、あまつさえその手で起爆スイッチを押すシークエンスがある。

疑問点としては、謙さん属するモナークという組織だが、これはかつて巨大生物に対する調査研究を推進すべくトルーマン大統領が設立した特務研究機関であったが、いくら公的な機関であるとはいえ正式な軍隊でもない一組織が、核爆弾という物騒なものを自由に扱える権限が与えられているかどうか。

でもまあそこは百歩譲ったとして、その核爆弾がここぞという場面で都合よく(いや実際問題、都合は最悪なのだが)遠隔装置が故障しているときた。有り体に言えば誰かが核爆弾を抱えたままゴジラの棲む海底まで出向き、その場で起爆スイッチを押さなければならない状況になったのだ。で謙さんが非常に抑制の利いた渋い演技で、オレが行く、と。時限装置(タイマー)はなかったのかなあ。というか遠隔装置の修理はできなかったのかなあ。

でもまあそこも百歩譲るとしよう。併せて2百歩譲ったことになるけど。監督のマイケル・ドハティさんは大のゴジラファンだそうで、今作には数々の東宝『ゴジラ』シリーズへのリスペクトやオマージュが散見される。となると当然、芹沢博士の自己犠牲は初代『ゴジラ』でオキシジェン・デストロイヤーを発射してゴジラを葬った芹沢大助(平田昭彦)博士への完全なるオマージュなのだろう。

でもね、元祖ゴジラの芹沢博士の行動には原爆と同程度に危険なオキシジェン・デストロイヤーを、どこかの為政者が利用しないよう永遠に葬り去るという大義名分があった。なのに我らが謙さん芹沢博士には自己犠牲の必然性がちっとも感じられなかったのだ。強いて言えば、誰かが行かなくちゃならないのならオレが行く、いやワタシが行く、じゃあオレが行く(←謙さん)、どうぞどうぞ、みたいなダチョウ倶楽部のノリしかね。『アルマゲドン』じゃないんだから。

しかもみなさん、核爆弾ですよ。核爆弾。核爆弾のスイッチを押す間際、ゴジラに直接触れながら謙さんが、「さらば友よ…」とそこだけ気障に日本語で別れの言葉を呟くという印象的な場面(英語字幕も気障で「good bye old friend」)ではあったが、これいかにも美談みたいなふうにしてるけど、冷静に考えたらとんでもない話でしょ。なんで謙さんはこの演出を断固拒否しなかったのかなあ。

しかも芹沢博士は、広島の被爆者である父の形見の動かなくなった懐中時計(被爆の瞬間で針が止まったまま)を肌身離さず持ち歩いているという設定なのにだ。再び引用して申し訳ないが、『シン・ゴジラ』のなかで、平泉成(敬称略)内閣総理大臣臨時代理がフランス駐日大使に何度も何度も頭を下げて、国連軍の核攻撃を阻止したあの意味というものを謙さんにはよくよく考えてもらいたかったですね。

それから行動目的がわかりにくいといえばなんと言ってもこの人、エマ博士。だいいち彼女と環境テロリスト組織の関係がわかりにくい。エマ博士(と娘のマディソン)はテロリストたちに誘拐されたように見せかけて、実は初めから結託していたということはまあだいたい理解できた。でもなんでそんな回りくどいことしたの?  その一芝居のためそれまで協力してくれていた同僚の研究者たちを文字どおり見殺しにしたわけでしょ。

彼女が後に(とってつけたように)力説した、地球を人類の環境破壊から守るためといういかにも高尚な目的があって、そのため怪獣を次々に目覚めさせるという理屈はこれもよくわからないけど、なにしろエマ博士はオルカという周波数で怪獣を自由にコントロールできる無敵の装置を所持してるわけなんだから、わざわざ環境テロリストたちと共謀する必要があったのかしら。

挙句、南極で氷漬けしていたキングギドラを覚醒させるための起爆スイッチを押してしまう。彼女の理屈は地球を一回リセットすることだったかのか。多くの犠牲を払ってでも? ところがいざ自分の娘がそのキングギドラの暴走によって危険な目に遭うと、途端に行動理念を翻す。彼女は元夫のマークたちの見ている目の前で、例のオルカを車に積んでキングギドラの注意を引き付けようとアクセルを全開に踏み込む。(故障していたオルカ、簡単に直りすぎ!)

えーっと、ここでもまた自己犠牲だ。本日2度目のアルマゲドン。ちょっとくどいよね。こういう見せ場はひとつの映画に一箇所で十分で、これじゃあ我らが謙さんの一世一代の見せ場が霞んでしまう。しかもこの二つ目の見せ場を演出するために膨大な時間とフィルム(じゃないのか今は)を費やしているし。そもそもエマ博士と環境テロリストの件は無しにして、シンプルに人類が起こした南極での自然破壊行為でキングギドラを覚醒させてしまう、というシナリオでよかったのに。

もっとも、彼女が自らキングギドラを覚醒させることで(かつてムートーとの死闘で息子を殺された)ゴジラに復讐しようとした、という深遠な理由があったのだとしたらそれは僕にも理解できるしそっちの方がはるかに面白かったのになあと思った。そして最終的にはオルカでもってモンスターたちを支配して、エマ博士こそがキング・オブ・モンスターになるというアイデアだったら笑えたかもね。

 

対決が夜ばかりでせっかくの怪獣バトルがよく見えなかった

これは見出しのまんま。ゴジラの背びれが光ったりキングギドらの光線が映えるためには夜とか靄のなかと、とにかく明るいお日様の元ではインスタ映えしないので、まあ映像的には致し方なかったのかなあと思います。思いますが、とくにモスラの全体像が出番が少なかっただけにはっきり見えなかったのが僕的には残念だった。みたび『シン・ゴジラ』の話に引き寄せると、ゴジラ登場シーンでのあの着ぐるみ感満載の通称:蒲田くんや、都会のド真ん中で凍結したまま身じろぎもしなくなった無様で不気味なゴジラの姿を白日のもとに晒したことを想えば、つくづく『シン・ゴジラ』を手掛けた庵野秀明さんの勇気と胆力には感動する他ない。

 

ゴジラファンの気持ちをくすぐる演出が微妙にアレだった

ドハティ監督が大のゴジラファンだというはわかる。そこは好感が持てるけど、だけど負けず嫌いで言うわけじゃないが僕だってそうだよ。なにしろ「東宝チャンピオンまつり」で育った世代なんだから。春休みや夏休み、あるいは冬休みになると決まって学校で配られるゴジラ映画のチケットを握りしめ、日がな一日映画館に入り浸っていたもの。 なのでこのアメリカ版『ゴジラ』で、 ♪ デデデン デデデン デデデデデデデデデンという伊福部昭さんのゴジラのテーマが流れたときには正直テンション爆上りした。

でもまあそれは置いといて(置いとくんだよ)、それにしたってソイヤソイヤはないんじゃないの、と思ったのもまた事実だ。しかも般若心経はさすがにちょっとやり過ぎじゃないかなあ。いくらアレンジと言っても。♪ モスラ~ヤモスラ~というあの古関裕而さんの「モスラの歌」のアレンジも変な感じだった。東宝版『ゴジラ』をリスペクトしてるならどうしてオリジナルじゃいけなかったのかそこが解せない。どのみち東宝がクオリティチェックしてるだろうから版権の問題とかは関係ないだろうし。

あと先述した元祖芹沢博士の自己犠牲への歪な形のオマージュシーンといい、オキシジェン・デストロイヤーの使われ方といい、これもモスラのザ・ピーナッツへのオマージュなんだと思うけど、チャン・ツィイーさんのほとんど意味のない双子設定といい(実はこれ僕は気づかなかった。あとから知った)、なんとなくゴジラ映画ってこんな感じでしょ、日本の観客もこんな感じでよろこぶんじゃない、というふうな意地悪な言い方をするとなんかリスペクトの底が透けて見える演出がちょっとアレだった。うん、まったくもって僕の僻み妬み嫉みたいなものですけど。

 

僕が見たいのはこんなゴジラじゃない!

これいちばん言いたい。ラストシーンで、キングギドラに勝利したゴジラの前に他の怪獣たちがひれ伏し、それに対してゴジラが満足げに雄叫びを挙げるシーン。あれだけは僕はどうしても納得できない。えーっ、ゴジラってこんなキャラだったかなあと茫然としてしまった。つーか、僕が見たかったのはこんなゴジラじゃなかった。

偶然か狙ったのか、キングギドラが初登場した『怪獣大戦争』のなかで、赤塚不二夫『おそ松くん』の「シェー」というギャグを一度ならずも二度三度ゴジラがしでかすことはあった。ガキ大将的なやんちゃ坊主のキャラクターをゴジラが見せることはたしかにこれまでもあった。でも、「怪獣の王(キング・オブ・モンスターズ)」とかまして「神」というのは、あれは人類がゴジラに対して畏敬と尊敬の念をもって与えた概念的な称号なのであって、ゴジラ自身は(直接聞いたわけじゃないけど)キングになることなどなんとも考えてないのではないのかなあ。

というよりむしろ、自然の守護者たる一個のクリーチャーとして、ときに人類の敵でありときに人類の味方となり、泰然自若と地球上に存在することがゴジラの矜持である、と僕は考えるのです。重ねて言うがゴジラはべつにモンスターたちの王様として君臨したいわけじゃない。闘いが終わればすぐにも海底深く、静かに過ごせる場所へと帰っていく。言ってみれば高倉健さんみたいな存在を僕はゴジラに対して抱いていたのだ。

ちなみに次回作の『ゴジラvsキングコング』だけど、これどちらが勝っても日米貿易摩擦に甚大な影響を及ぼしそうだから、よもや決着などつくはずもなく、僕の予想でははじめちょこちょこっと闘って、でも最後には一致協力して復活した(メカ)キングギドラと闘って勝利を上げる、というストーリーにしかならないような気がします。当然見に行きますけどね。