ヒロシコ

 されど低糖質な日日

映画『クワイエット・プレイス』ネタバレ感想~これ読んだら即死だからね!

「音を立てたら、即死。」という惹句にやられる。ホラー映画という触れ込みだが、もし『呪怨』系のホラーを想像して見るのをためらっているのだとしたら、それは見当ちがいでもったいないですよ、といいたい。逆に『呪怨』系のホラーを期待して見に行ったら、肩透かしで少しがっかりするかもしれません。

しかも「音を立てたら、即死。」と煽ってるわりには、「ドン!!」とか「バン!!」とか大仰な効果音の連発で、そのたびに僕は腰を抜かしそうになった。1時間30分という比較的短い上映時間のなかで、よくぞおなじ手口に何度も何度もひっかかるもんだと我ながら呆れて苦笑する。

主演は『プラダを着た悪魔』のエミリー・ブラントさん。ネタバレになるので後述するが、劇中、前代未聞のとある行為でひょっとするとアカデミー賞主演女優賞も夢じゃないかもね、というくらい彼女の鬼気迫る演技は一見の価値あり。

監督は彼女の実生活での夫であり、映画のなかでも夫婦役として出演しているジョン・クラシンスキーさん。僕は存じ上げなかったが、この作品のヒットで一躍時の人となったようだ。他の主な出演者は彼女ら(劇中での)夫婦の子どもたち。と、霊の、もとい例の “ 何か ”。

正直いろいろモヤモヤするところがないわけじゃないのだが、それらを差し引いてもそうとう面白いというか、絶えず緊張を強いられる怖い映画でした。ただこういうワンシチュエーション勝負の(といっていい)作品は、感想書くの難しいんだよなあ。

《以下、それなりにネタバレしてますのでこれから映画を見ようと思っている人はここで回れ右してください。その際には絶対音を立てないでくださいね、即死ですから。》

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「音に反応し人間を襲う “ 何か ” によって荒廃した世界で、生き残った1組の家族がいた。
その “ 何か ” は、呼吸の音さえ逃さない。誰かが一瞬でも音を立てると、即死する。
手話を使い、裸足で歩き、道には砂を敷き詰め、静寂と共に暮らすエヴリン&リーの夫婦と子供たちだが、
なんとエヴリンは出産を目前に控えているのであった。
果たして彼らは、無事最後まで沈黙を貫けるのか――?」(公式サイトからあらすじ引用)

映画の冒頭が素晴らしくよかった。小さな男の子(一家の末っ子)が無人のスーパーマーケットの店内を裸足でペタペタ音を立てて走り回っている。壁一面に貼り出された夥しい数の行方不明者のチラシ。まだ事態がうまく飲み込めないものの、ピンと張り詰めた空気にただならぬ気配を感じる。

けれどすぐには何も起きない。何も起きなければ起きないで、今度はそのことがあらたな緊張状態を増幅させる。きっとこれはもっと嫌な何かの前触れに違いないと。事実、その嫌な予感は的中するのだ。

末っ子が欲しがったロケットのおもちゃを、父親はおもちゃから乾電池を抜くと有無も言わさず棚に戻す。父親が立ち去ったあと、末っ子を不憫に思ったお姉ちゃん(長女)がこっそりロケットを末っ子に手渡す。彼は父親が抜いた乾電池をつかみ取ると急いでみんなのあとを追う。

さきほどの嫌な予感が的中するのはこのシークエンスに続くすぐあと。何が起きたのか起きなかったのか、それはやはり書かないでおく。ただ、弟思いのお姉ちゃんの優しさが仇となる。文字どおり命取りになる。「音を立てたら、即死。」の本当の意味がわかって戦慄するのはこの瞬間だった。

同時に、映画のワンシチュエーションがこのときまでにだいたい提示されるのである。以来、一家の両親と長女との関係は実に微妙なものになる。一方で、この長女が先天的に耳が聴こえないため一家は手話をマスターしていたことが、音の出せない世界を生き延びることにおいておおいに役立った。

また父親が彼女に与えた補聴器がときどき発する高周波の音が、“ 何か ” の弱点だということも追々わかってくる。そんなの都合主義じゃないかという批判は当たらない。なぜなら、生き延びた一家が運よくそういう境遇だったわけではなく、そういう一家だったからこそ逆に生き延びることができたのだから。

つまりなにが言いたいのかというと、この長女の存在こそが良くも悪くも一家の命運を握っているというところが面白いなあと僕は思ったのだ。ホラーが映画の縦糸だとすれば、親子関係の部分は映画というカンヴァスを織る横糸で、彼女はその縦と横の糸が交錯する、どちらとも密接にかかわる重要なポジションにいたわけだ。

ミリセント・シモンズさん。一家の長女を熱演した彼女は、実際にも聴覚に障害をもつ女の子で、監督のたっての希望もありこの大役を射止めたのだという。今後とも彼女の名前と動向からは目を離すことができないだろう。

公式サイトによれば、“ 何か ”は驚くべき嗅覚でどんな音も逃さず人間を襲うのだそうだ。だけど、どんな音でも “ 何か ”は反応するのだろうか。音の大きさや聞こえる範囲、自然の音と人工的な音を聞き分けることができるのか、そういう基準がいまいち曖昧だから終始モヤモヤする。

そもそも “ 何か ” は、全部でどのくらいいて、どこから来てどんな目的で人間を襲っているのか(犬も襲っていたが)ほとんど明かされないままだ(僕が途中で寝ていなければ)。しかも人類が壊滅状態に陥るまで誰も(アメリカ軍とか) “ 何か ” の決定的な弱点に気づかなかったのか。

もう少し下世話な話をすれば、地下室の防音設備はどういうふうになっていたのか。分厚いとはいえマットレスが地下壕の蓋ってどうなのか、とかね。あくまでエンターテイメント映画。ツッコミどころを探して腐すよりは、その世界観にどっぷり浸かって楽しんだもん勝ち、ということは承知の上で言ってるのですが。

“ 何か ” もそうとう怖かったけれど、霊の、もとい例の地下室に通じる階段の釘を母親が裸足で踏みつけるシーンが個人的にはいちばんゾッとした。いつか誰かが絶対踏むよな踏むよな、と思っていると予想どおり踏む。でも、ギャーッ! とは叫べないから(即死)、ヌグググググ……と、まさに死ぬような形相でお母さんは痛みを堪えるわけだ。

そういうのすごくベタだけど、やっぱり怖い。家で留守番をしているよう言われたら必ず家を抜け出す。補聴器を渡されても肝心なところでスイッチを切っている。サイロがあればサイロに落ちる。釘を踏むのもそうだけど、やってはいけないことをホラー映画の登場人物たちは必ずやってしまう。そうして自らピンチを招くのだ。

身を隠そうとすれば何者かに手首をぎゅっと掴まれ、あっ! と思ったら、自分の身を案じて助けにきてくれた人の手だった。なんて、効果音同様に古めかしい手法(王道とも常道ともいうのか)って感じがするんだけど、正直僕はあまりホラーに免疫がないので恥ずかしながらそれだけでもかなりビビった。

怖さの演出の陰で案外目立たないが、たとえば一家の長男がトラックの運転席でギアを入れる真似事をするシーンだとか、滝の裏側で父親と長男が会話する内容やシチュエーションそのこととか、妻を亡くして悲嘆に暮れる老人が絶叫するシーンとか、伏線を敷いておいてあとからちゃんと忘れずに回収する。アイデアや勢いだけではないそういう緻密さにも唸った。

滝の大音響の裏側でなら声を出して会話ができるのだったら、滝のそばで暮らせばいいじゃないか、という考えもあるかもしれないけれど、でもそれは想像力に欠けると僕は思うのだ。現実の災害に見舞われた多くの被災者の方々が、仮設住宅ではなく長年暮らした我が家へ一刻でも早く帰りたいと願うように、それが人間のふつうの心理なのだから。

それからなんでもかんでもこういう話に結ぶつけてしまうのは無粋であるのもあえて承知で言えば、この映画で敵視される「音」「声」とは、徹底的に人間が抑圧され監視・管理されたディストピア社会において、絶対的な権力に立ち向かって上げる「声」、みんなと違うことを言えばたちまち叩かれる社会の悪しき風潮にあえて勇気を出して上げる「声」、のおそらくはメタファーなのだろう。

あと、これも突飛な妄想だと笑われるかもしれないけれど、人類が壊滅的な状況なのによく赤ん坊なんて産むよな、というと批判があるとすればやはりそれも当たらないと僕は思う。なぜなら、あの絶望しかない世界において、boy(男の子)の誕生は一家の、いわんや人類の希望の光であり、つまり西欧世界における彼こそがイエス・キリストその人に他ならないからである。

音を立てれば襲いかかってくる “ 何か ” に怯えながら、映画史上、霊を見ない、もとい例を見ない無痛分娩ならぬ無声分娩に挑むシーンの凄まじい緊迫感はこの映画のひとつの白眉だった。なにしろくどいようだけど今度は母子ともども声を上げたその瞬間、即死。どうする? どうなる?! エミリー・ブラントさんはこのシーンの演技で歴史に名を残すこととなったに違いない。

彼女ら夫婦が、イヤホンを使って音楽を聴きながら束の間ダンスに興じる短いシーンはほんとうに素敵だったなあ。父親が最期に子どもたちに伝える愛の言葉(手話)もすごくよかった。怖さなんていっとき忘れるくらいジーンと震えた。せつなくて僕は泣いた。母親と長女がいよいよ覚悟を決めて腹をくくったときの顔も頼もしくてぐっときた。

続編の製作がはやくも決定しているのだと聞く。さすが、そっちの商売っ気のほうもなにやら怖さを感じますよね。

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