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松岡茉優はなぜ万引きをしなかったのか?~映画『万引き家族』ネタバレ感想

カンヌ国際映画祭パルムドール受賞作『万引き家族』を見た。是枝裕和監督。僕はとっても面白かったですね。見てよかった。実は映画を見たのは公開後間もない頃だったのに、あれこれ考えて感想書くのをずっと先延ばしにしてきた。


映画「万引き家族」本予告編

タイトルの『万引き家族』というのはインターネットスラングでいうところの釣りタイトルだろう。映画のなかでは本物の釣竿を万引きするシーンもあるけれど、もちろんそういう意味ではない。あえて強烈な拒否反応や嫌悪感を与えそうなインパクトあるタイトルをつけることによって、本来のテーマを事前知識として、あるいは鑑賞の途中まで観客に意識させないようにしたのだ。そしてそれは見事に成功している。

つまり万引きという題材はあくまで映画の道具立てで、それを借りてべつの何か、貧困とか福祉切り捨てとかネグレクト(育児放棄)などという社会問題と真摯に向き合っていく、いってみればいつもの是枝イズムに溢れた傑作だと思った。

冒頭にこそ父親のリリー・フランキーさんと城桧吏さん(11歳)演じる息子・祥太との華麗な(という言い方は語弊があるが)連携プレイによる万引きシーンがあるが、それ以降は万引きという行為そのものがクローズアップされるシーンは実はそれほど多くない。

だいいちリリーさんは建設現場で日雇いの仕事をしているし(あまり真面目じゃないが)、母親役の安藤サクラさんはクリーニング工場でパートをしている(客の忘れ物をこっそりネコババするけどね)。ちなみに祥太は「小学校は家で勉強できないやつが行くところ」というリリーさんがうそぶく言葉を信じて学校には行っていない。

一家が住むボロ家の持ち主であるおばあちゃんの樹木希林さんは、月に6万の年金を貰って昼間はパチンコをして暮らしている(ときどき他人の出玉をくすねて)。要するにふだんの生活で不足する物資、シャンプーとかカップラーメンとかのこまごましたものを万引きで補う暮らしには違いないが、それでもって「万引き家族」とまで表現するのはちょっとオーバーかなあという気が僕はしました。

ただ彼らの生活信条の根底には、「店の売り場にあるものはまだ誰のものでもないから盗んでいい」というリリーお父さんの理屈や、「店がつぶれない程度になら(万引きするのは)いいんじゃない」というサクラお母さんの言い分があり、どちらもそうとう自分勝手で誤った無茶苦茶な理屈だけど、当人たちはそれを免罪符のようにしているのは確かだ。

「万引きは立派な犯罪です」というより、自分たちのような社会からこぼれ落ちた人間が、その社会からのほんのちょっとおこぼれを頂戴するだけの行為のいったいどこかいけないのか、という憤りとも開き直りともつかない気持ちが彼らのなかにはあれど、なにか社会に復讐してやろうとかいう壮大な覚悟はおそらくないし、スリルを求めてとかいうゲーム性も感じられない。

でまあ、そんなふうにそれなりにしあわせに暮らしていた家族に、親に虐待されアパートのベランダで隠れるように身を潜めていた佐々木みゆさん扮する女の子を不憫に思ったリリーさんが家に連れてきて、一緒に暮らすようになる。そこから、この一家のありようが微妙に変化してくるという話だ。映画的には、この出来事で一家の隠された秘密が徐々に明らかになってくるという仕掛けだった。

万引きという行為、誘拐まがいの行為を除けば(そういうのを除くというのもアレなんですけどね)、おんぼろで小さな平屋建ての家で共同生活を送っている一見どこにでもいそうな貧乏だけど明るく楽しい家族(サザエさん一家みたいな)の、ありふれた日常が淡々と綴られる映画なのだった。そこのところを退屈と感じるかどうかがひとつ、映画をどうこう判断する分かれ目になるだろうなあ。

『万引き家族』の骨子は、僕は祥太の成長の物語だと思っている。ある日突然りん(先刻の女の子のこの家族内での名前)という妹が出来、彼女に兄として慕われるようになるにつれ祥太は自分でも気づかないうちに変わっていく。ひとつ転換点となる象徴的なシークエンスが、りんと駄菓子屋で万引きをしようとしたところを柄本明演じる店のおじさんに見つかり、「妹には、これ(万引き)やらせるなよ」と駄菓子をくれて見逃してもらうくだりだ。

サザエさんの例でいえば、伊佐坂先生みたいな懐かしい感じの町内会のおじさんが出てくるあたりに是枝監督の真骨頂があると僕は密かに思っているんだけどもね、この社会というのはもはやどこにも救いがないように見えるけれど、案外柄本明さんのような大人が(数は少なくなったが)まだまだいて、ルールを外れた行為をときには見過ごしてくれたり思いやりある忠告を与えてくれることによって、懐の深い社会を形成しているのだというふうなね。ちょっとあそこいいシーンでしたよね。

祥太も柄本明さんの言葉で、自分がこれまでなにも考えずくり返してきた行為を、妹であるりんにまではやらせちゃいけないのではないかと思いはじめる。あるいは「店のもはまだ誰のものでもないから(万引きしても)いいんだ」と言っていた父親が、工事現場で怪我をして働けなくなり皮算用していた労災も下りず、万引きもままならない身体になった途端、再び車上荒らしを始めるのを見て、それもどこか腑に落ちないものを感じてくる。

手垢のついた表現でアレなんですけど、ちょっとエディプスコンプレックスのような、「父親殺し」というほど過激なことまではいかないまでも、父親越えのような。これまでずっと盲信してきたリリーさんに対する信頼が揺らぎ始めるようになるのだった。

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小さな家の縁側から家族で花火を見上げるシーン。このシーンはいつまでも心に残る……。

クライマックスはある夏の日。リリーさん一家は電車に乗って日帰りで海へ遊びに行く。そこで祥太は、母親サクラさんの妹の亜紀の水着からこぼれおちるおっぱいに思わず見惚れてしまうのだった。祥太の成長がもはや飽和点に到達したことを強く印象づける面白いシーンだった。

この海水浴のシークエンスは全編、ことに海ではしゃぐ家族の様子を砂浜から静かに見つめる樹木希林さんの見事な演技もあいまって、奇跡のように素晴らしいシーンの連続だった。あたかも家族の最期の晩餐みたいな。

ついさっき亜紀のおっぱいなんていきなり説明もなしに書いたけど、映画見てない人には亜紀って誰? ってことだよね。亜紀は安藤サクラさんの妹でこの役は松岡茉優さんが演じている。祥太からすれば叔母さんに当たることになるのか。亜紀は女子高生がエッチな行為を見せてくれるという風俗店で働きながらリリーさん一家と同居しているのだ。

話は逸れるが(でも重要なこと)、僕が気になったのは家族のなかで亜紀だけがちょっと独特のポジションにいるというか、彼女は風俗で稼いだお金を一家の生活費に入れなくていいことになっていて、それになにより亜紀だけがなぜか万引き家族のなかにあって唯一万引き(およびそれに類する盗みのたぐい)をしないのだ。『万引き家族』なのに万引きしない。それはなぜなんだろうと、僕は映画を見てる最中も見終わった後もずっとそのことを考えていた。

父親がいて母親がいておばあちゃんがいて子どもが二人いて、家族と名乗るにはもうそれだけでも十分過ぎる構成なのに、わざわざお母さんの妹の亜紀まで同居させる理由はいったいどこにあるのだろうと。話をこれ以上ややこしくする必要があったのかと。

結論から書くと、ひとつは先ほどの祥太やリリーさんの「性」の問題を浮き上がらせるためのアイコンとして。家の中でリリーさんと亜紀がふたりきりになるシーンがあって、あそこちょっとドキドキしたもの。で、そのあとのソーメンからの例のくだりに繋がるわけだからね。それとこっちが本意だろうけど、亜紀がある意味「傍観者」の立場にいるからなんだと思ったんですね。あるいは観察者と言い換えてもいい。

彼女は一家と共に暮らしながらも、つねに客観的にこの家族を見ていた。後述するが事件がすべて明るみになったあと、亜紀ただ一人があの一家の住んでいた元の家に舞い戻り、懐かしそうに家の隅々まで見て回るのが亜紀だった。

こういう考え方はどうだろう。誰からも見つからないように世間と隔離するようにひっそり暮らしているリリーさん家族と、反対に誰かに見つかりたがっている、というか実は特定の誰かに自分の存在を見つけてほしい(認めてほしい)と願望している存在の亜紀、という構図を監督は意図して作りだしたのではないかと。

観察者を内部に抱えることによって、この万引き家族の特異さがよりいっそう際立ったのは間違いない。言ってみれば亜紀は観察者であり物語の語り手のような存在だったのだ。世間から目立たないように暮らす特異な家族の物語の(ちょっと信用できない)語り手。

あるいはこの物語のすべてが亜紀の妄想であり、彼女が作りだしたファンタジーだったといってもいいかもしれないとさえ僕は思う。映画を見た人はすぐわかると思うけど、あの「4番さん」を膝枕しながらそっと話して聞かせたようなファンタジーなのかもしれない。

祥太が劇中でリリーさんに話して聞かせる『スイミー』という小学校の国語の教科書にも出てくる物語がある。小さな魚たちが群れを作り大きな魚のふりをして巨大なマグロから身を守ろうとする話。振り返ってみるとリリーさん一家を象徴するとっても重要なメタファーなんだけど、亜紀はあのスイミーの群れには含まれない。なんとなれば彼女には、群れを作ってでも生き延びてやろうという逞しさも熱量もないからだ。亜紀はそれほど儚い存在なのだった。

自分よりかよわいりんと出会うまでは完全に亜紀はそんなふうだった。でも彼女だって変わりはじめる。自分よりうんとかよわいりんと出会ってから。そして少し残酷な言い方になるが、自分の思いを声に出して誰かに伝えることが物理的に叶わない「4番さん」と出会うことによって。

まあ総じてこの物語の登場人物たちは、老い先短いおばあちゃんと絶賛能天気なリリーさん以外(リリーさん本人じゃなくて役柄)、みんな成長するのだ。祥太は言うに及ばず幼いりんも、母親のサクラさんも母性に目覚め、もちろん亜紀にもそんな兆しが見える。

話を元に戻します(どこに戻せばいいのやら)。樹木希林さん演じるおばあちゃんが海への日帰り旅行のあと唐突に死ぬ。それから妹みたいに祥太に懐いていたりんが、祥太の真似をしてスーパーでお菓子を盗もうとして見つかりそうになる。それを庇ってわざと見つかるようなヘタな万引きを打った祥太が、店員に追いかけられ、道路から下のアンダーパスへ飛び降りて怪我してしまう。

たんたんと進んできて物語はここにきて急展開を迎えるのだった。

祥太は警察に補導され、そこからリリーさん一家の意外な真実が次々と明らかになる。実は彼らは誰一人として血縁関係にない、寄せ集めの家族だった。そんな家族に警察や司法や福祉の手が、ある意味形式的に、ある意味無造作に、無遠慮に入ることによって貧乏ながらあれほど幸せに暮らしていた家族が、皮肉なことにバラバラになってしまうのだ。

世間の目から逃れるように生きていた「誰も知らない」家族が、ゆえに社会のどこからも誰からも救いの手が差し伸べられること適わなかった家族が、一夜にして今度は世間の誰もが知るところとなった途端、無残に解体されてしまうというこの矛盾。このつらい現実を僕らは容赦なく見せつけられる。

是枝監督が映画をとおして伝えたかったことは、つまりこのことだったと思う。人間として社会のルールから若干逸脱した人たちであっても、彼らを受け入れる社会の温かさ懐の深さがもう少しあってもいいのではないかということ。

そして家族として必要なことは血縁なのか、それとも愛情なのかというテーゼも同時に僕らはつきつけられたわけだ。この問いに対する解がもちろん映画のなかで明確にもたらされることはないが、それは観客ひとりひとりが考えていくべきことだろう。

祥太役の城桧吏さんは『誰も知らない』の柳楽優弥さんを彷彿とさせる目力がある素晴らしい俳優さん。松岡茉優さんはこの映画でいちばん厄介な役を見事に演じていた。佐々木みゆさんのけなげさ。リリー・フランキーさんはしょぼくれたおやじをやらせたらいまこの人の右に出るものがいないと思う。僕的には田中邦衛さんの域にまで到達した印象。リリーさんで『北の国から』の続編が撮れるなあと。安藤サクラさん、樹木希林さんの演技が見事なのはいまさら言うまでもない。

樹木希林さんが玄関先で、やてきた老人福祉員を前に、歯のない口いっぱいにみかんかなにかを頬張るシーンの得も言われぬ凄み。前述した海のシーンの静かな感動。

安藤サクラさんはラスト近くで取り調べの警察官に、「子供たちは、あなたのことなんて呼んでたの?」と訊かれて曖昧につぶやく。
「なんだろうね。なんだろうね」
自分たちが盲目的に信じる正義を振りかざす警察官を前にして、怒るでもなく、黙秘を決め込むでもなく、ただあふれる涙を両手で何度も何度も目尻に擦りつけるようにして拭う。ありとあらゆる感情が入り混じった震えるくらい感動的な演技だった。

もっともっと言いたいことがある。言いたいことがありすぎて困る。前述したシーンは言うに及ばず、名前(というか呼び名)にこだわった映画でもあった。リリーさんは祥太との永遠の別れとなるかもしれない再会の夜、カップ麺にコロッケを浸しながら、「おじさんに戻るわ」とあっさり告げる。あれほどお父さんと呼んでほしがっていたリリーさんなのにね。せつない。翌朝、祥太ひとりを乗せたバスが無情に走り去っていく。祥太がなにかをつぶやく。「お父さん」と呼んだようにも見えるけれど、その声はリリーさんにも僕ら観客にも届かない。

実の妹の名前を源氏名にして風俗で働く亜紀というのも、その感情が複雑すぎて怖いなあ。りんも本名ではない新しい名前で家族の一員として迎え入れられる。もちろん(たぶん)家族のみんなが、祥太も本名ではないのだろう。新しい名前、この家族の中でだけ通用すればいい名前。「4番さん」という風俗のお客さんの存在もそうだ。彼にも本当の名前があるだろうが、亜紀の前では今は「4番さん」でいいのだ。

自分ひとりの世界では自分の名前などいらない。ところが自分以外の誰かを呼ぶのにはその人の名前(呼び名)が必要になる。他人から自分をなんと呼んでほしいかは、その人との距離感によっても違ってくるだろう。あるいは自分が集合体のなかでどういうポジションでいたいのか。そういうふだんあまりにも当たり前のこととして深く考えてもいないことが、ときにはとっても大事な意味をもってくることをこの映画は教えてくれる。

あと最後になるが、祥太が補導されたことを知って、リリーさんサクラさんは翔太を見捨てて逃げようとするのだけれど(酷いシーンだけどちょっと可笑しくて笑っちゃった)、あれ僕はね、見捨てたというより未来ある翔太やりんを自分たちとは違う日の当たる社会にもう一度戻してやりたいと思ったからじゃないかなあ、と僕は思いたいですね。

と思う一方で、家族は血縁か愛情かなんて白か黒かの二者択一じゃないし、どっちにしたってそんなきれい事ばかりで家族が成り立っているわけじゃないんだよ、という監督が投げかけた問いに対する監督自身のひとつの解答(メッセージ)みたいなものが示された場面でもあったのかなあと思った。

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