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嫌われ政次の一生~『おんな城主直虎』高橋一生さん退場の巻あらすじと感想ついでに最終回のサブタイトルも予想しました!

日曜日の夜。大河ドラマ『おんな城主直虎』(第33回)高橋一生さん退場の巻を見る。いやあ面白かったなあ。すばらしく面白かった。面白いといっても涙なしにはとてもじゃないが見られなかった。もう滂沱の涙涙涙であった。いま僕が見ている唯一のテレビドラマがこれでよかったあと心の底から思った。実は今年の大河ドラマはじめのうちこそ竜宮小僧だなんだって個人的にはどうでもいいとしか思えない些末な話が続くなかでいつまで見続けようかと思案していたのだ。それが高橋一生さん演じる政次(小野但馬)が柴咲コウさんの直虎と井伊谷の領主の座をめぐりなにかと対峙するようになってからの展開は俄然目を瞠るものになってきた。そして今回とうとう一年間に及ぶ大河の前半のクライマックス政次退場の巻である。僕自身のアツく興奮した気持ちを鎮めるためにもたまにはドラマのあらすじを(前回の終盤から今回にかけて)自分なりに一度ちゃんと整理してみようかと思う。まず直虎を惣領とする井伊家は今川氏真によって事実上お取り潰しの憂き目にあっていた。これが前回までの話。城のある井伊谷は今川直轄領となり今川の目付として政次が借りの城主を務めることになった。だが実は裏では井伊家の再興を果たすため直虎と政次とで仕組んだ秘策が着々と進んでいたのだ。それは武田と盟を結んだ徳川が今川領である井伊谷に侵攻するさい政次がおとなしく城を明け渡すというもの。直虎はその見返りに家康から井伊谷の所領を安堵してもらい井伊家の復興を果たし徳川の家臣団に加わるという道を探ったのだった。その旨を認めた書状もすでに家康に送っていた。結果的には今川の手のなかから徳川の手のなかへ移るだけという気もするが井伊のような小さな藩が戦国の乱世で生き残っていくにはそれしか道はなかったのだろう。いよいよ徳川による井伊谷侵攻のとき。先導役を務めたのは徳川の調略で寝返った今川の目付三人衆。なかで近藤は直虎と政次にこれまでさんざん煮え湯を飲まされてきただけに井伊家の復興と井伊谷の所領安堵をこころよしとはしなかった。近藤はこの機に乗じて井伊谷を自分のものとしようと画策する。いざ城の明け渡しの段になると家臣に命じなんと物陰から徳川方に弓を射させたのだ。しかも近藤はその罪を政次に押し付ける。これに対して直虎は家康に政次の無実を訴えた。だが逆に直虎は近藤によって牢に捕らえられてしまう。近藤の憎っくき悪役ぶりたるや。生き馬の目を抜く乱世にあってこのなりふり構わなさはかえって清々しいほどあっぱれであった。ただし家康も感が鈍いわけではない。なんだかあまりに出来過ぎた話に近藤ら目付三人衆を怪しむのだったがなにしろ時局は一刻の猶予も許さない。やむを得ず井伊谷の仕置きを近藤に委ね先を急がねばならなかった。いったんは井伊の隠れ里に逃れた政次だったが自分の代わりに直虎が捕らえられたことを知る。しかも直虎の放免は自分の首と引き換えだという。ついに政次は自ら名乗り出るに等しいような真似をしては近藤に捕らえられるのだ。それでも牢抜けしてどこかへ逃れようと思えばそうすることもできたものを。じっさい龍雲丸が牢抜けの手助けにもやって来た。なのにあえて逃げなかったのは自分が犠牲になれば直虎はじめとする井伊家の面々や多くの民百姓の血を流さずに済むと考えたからだ。それを「小野の家に生まれた本懐だ」と政次はいってのけたのだ。このときの政次かっこよかったなあ。身も心もズタボロの酷いありさまだったにもかかわらず痺れるほどかっこよかった。いよいよ磔の刑が執行されることになったとき。われが見送ってやらねば誰が政次を見送ってやれるのだと悲痛な面持ちで刑場へ出向く直虎。けれどその心のなかとは打って変わって表情はなぜか冷静そのものに見えた。次郎法師という名の尼僧でもある直虎のことだ。きっと厳かに経でも読むのだろうと思いきや。いままさに政次を刺そうと槍を構える近藤の家臣のその槍をあっというまに奪いとると政次の左の胸を一突き。誰にも手出しさせず直虎自らの手で政次の息の根を止めた瞬間だった。ちなみに僕の息も一瞬止まった。

直虎「地獄へ落ちろ小野但馬! ようもここまで我を欺いてくれたな。日の本一の卑怯者と未来永劫語り伝えてやるわ!」

政次「もとより、女子頼りの井伊に未来などあると思うのか。生き抜けるなどと思うておるのか。やれるものならやってみよ。地獄の底から見届け……(絶命)」

衝撃の、茫然の、そして感動のクライマックスシーン。「地獄へ落ちろ」という直虎の台詞に込められた製作者の思い。井伊谷の差配を任せる条件として井伊家の跡継ぎである幼少の虎松の首を差し出せという今川氏真の命に従った政次。だがそれは虎松の首と偽るために親に大金を渡すことと引き換えに刎ねた疱瘡の子の首だった。そのさい政次が自らの家臣たちに向かって(そして心のなかでは直虎に向かって)吐き捨てた台詞「地獄へは俺が行く」とちょうど一対を為す名台詞だった。ただひたすら井伊家を(直虎を)守るためあえて今川の犬などという汚名を着て生きることを本懐とした政次の真意が直虎にちゃんと通じていた確かな証となる台詞だったのだ。われもいずれおぬしのいる地獄へ行くからそれまでおとなしく待っていろと。なんとも悲愴な覚悟と悲しみと感謝と後悔とがない交ぜになった激しい言葉だろうか。もはや男女の情愛や友情や君臣の礼なんていう生易しい次元を超越した人間同士の尊敬と信頼とが真っ向からぶつかりあう瞬間に立ち会ったようだった。ともかくもこれで直虎(幼名・おとわ)の幼馴染であり絶対的な理解者であり右腕でもあった井伊家家老・小野但馬(幼名・鶴丸)がいなくなってしまった。もうひとりの幼馴染・井伊家前城主・直親(幼名・亀之丞)はとうにこの世にいない。いまの僕の心配はかつての大河『八重の桜』の「尚之助様ロス」と同じような轍を『おんな城主直虎』が踏まなければいいがなあということです。『八重の桜』のときは川崎尚之助が退場してからの後半戦は著しくバランスを欠きてきめんにドラマがつまらなくなっていった。「政次ロス」後がよもやそんなことにならないよう僕の心配が杞憂におわるよう祈りたい。さて話は変わるが今回のサブタイトル「嫌われ政次の一生」はいうまでもなく『嫌われ松子の一生』のもじりである。しかも同時に政次を演じた高橋一生さんの一生にもかかっているという素晴らしく秀逸なタイトルだった。思えばこのドラマ毎回有名な映画や小説のタイトルなどをもじっていてそのことも話題になってきた。第1回の「井伊谷の少女」はおそらく「アルプスの少女(ハイジ)」のもじりだろう。あるいは「風の谷のナウシカ」かも。直虎(おとわ)が幼いころの許嫁であった直親(亀之丞)と別々の人生を歩むことが決定的となった回のサブタイトル「初恋の別れ道」はチャン・イーモウ監督チャン・ツィイーさんの『初恋の来た道』。今川義元が織田信長に討たれる回の「桶狭間に死す」はトーマス・マンの小説ルキノ・ビスコンティの映画『ベニスに死す』。直虎が井伊谷の差配に腐心する回の「城主はつらいよ」はご存じ寅さん『男はつらいよ』。「綿毛の案」は綿花の栽培を井伊家の産業として奨励しようとした回でこれはモンゴメリーの小説『赤毛のアン』の苦しい(笑)もじり。ユニークなところでは「ぬしの名は」は今年大ヒットしたアニメ映画『君の名は。』。「死の帳面」は英訳すると『デスノート』。なかでも僕がとくに好きなのが「あるいは裏切りという名の鶴」でこれはただひたすら井伊家を(直虎を)守るため今川の犬というありがたくない汚名に甘んじてきた政次の真意に直虎がようやく気付く回のサブタイトルだった。もちろん元ネタは『あるいは裏切りという名の犬』で政次の幼名・鶴丸と今川の犬にかけたダブルミーニングである。心憎いほど巧いなあ。でこうやってみてくると僕の単なる思い過ごしかもしれないけれど直虎と政次の関係のターニングポイントとなる回の「あるいは裏切りという名の鶴」となんといっても今回の「嫌われ政次の一生」のふたつのサブタイトルを(全体のストーリーや主要な配役が決まった)構想の段階ですでに脚本の森下桂子さんはひそかに思いついていたのではないだろうかと。そのいきおいで他の全部の回を映画や小説のもじりでいこうと考えたのではないでしょうか。つまり「あるいは裏切りという名の鶴」と「嫌われ政次の一生」ありきのサブタイトルだったような気がするのだ。まあついでにいえば最終回とかそのいっこ前のサブタイトルもきっとそんな感じですでに内心期するものがあるだろうと察しますね。例えばチャンドラーの『ロンググッドバイ』からの名台詞「さよならを言うのは、少しだけ死ぬことだ」とかね。僕的にはかっこいいと思うけど最終回と(最終回だからたぶん直虎が)死ぬことくらいしかかかってないからなあ。その他の予想としては「コウより永遠に」とかね。これ元ネタは小説で映画にもなった名作『地球より永遠に』(ここよりとわに)なんだけど直虎を演じた柴咲コウさんのコウというのと直虎の幼名・おとわにもかけてある。そして最終回だから永遠に。どうかしら? う~ん。というかこれ案外正解じゃないのかなあ? どう? どう?

おんな城主 直虎 前編 (NHK大河ドラマ・ストーリー)

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