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『火花』(又吉直樹)を読んだ感想(あらすじはないけど結末のネタバレあります)

『火花』を読んだ。芥川賞を受賞した、芸人・又吉直樹さんのデビュー作だ。話題になったのがもう2年も前だというのに、いまだ余韻がくすぶっていた。このたび文庫化され、さらに第2作『劇場』が発売されたことにより、燃えさしの火に再び大量の燃料が投下されたかのような騒ぎだ。

その炎熱に刺激され、僕は、大変申し訳ないのだが芥川賞発表号である当時の『文藝春秋』を買ったまま2年間放置していたので、単行本でも文庫本でもなく、その古い雑誌をやおら引っ張りだし読んでみた。 

文藝春秋 2015年 09 月号 [雑誌]

文藝春秋 2015年 09 月号 [雑誌]

 

あらすじは面倒なので書きません。概略だけ。熱海の花火大会の場面で始まり、10年後の同じ熱海の花火大会の場面で終わる、ある意味これも「円環の物語」だ。舞台は同じでも、10年という歳月は、主人公である売れない漫才師・徳永と、先輩であり師匠でもある神谷との関係性やお互いの立ち位置、ふたりを取り巻く環境をガラリと一変させてしまった。

いったいどれだけ遠くへ来てしまったことか。そんな彼らの出会いと別れを、可笑しみと悲しみとせつなさに彩られた数々のエピソードと折々の情景描写で、淡々と緻密につないでいく。

スパークス(というのは、徳永と相方のコンビ名)が冒頭の熱海の花火大会で披露する漫才、「セキセイインコに言われたら嫌な言葉」というネタからして完全に僕のツボだった。そんなこともさいわいしてか、僕はこの小説を最初から最後までとっても面白く読むことができた。

個別にあげていくとキリがないが、徳永の幼少時の、お姉さんが紙のピアノを弾くエピソードとかね。ぐっときた。「大丈文庫、大丈文庫」という謎の言葉は、相手に反論しても無駄であるという徒労感を与えるには打ってつけの言葉で、それも神谷さんが発明した、というくだりとか。地味によかった。

神谷さんの恋人(だった?)真樹さんとの別れの場面とかもね。涙がにじみ出た。別れ際、アパートの部屋のドアを静かに閉めながら真樹さんが寄り目にして舌を出した変顔をして、「身体に気をつけてね」と神谷さんに言う。それから10年後の徳永と真樹さんの一瞬の再会シーンとか。なんて愛おしいんだろうと思ったよね。この作者は、なんてやさしい眼差しを持っているんだろうと思ったもの。最高だった。

劇的なことなどなにひとつとして起こらなくとも、僕はちっとも退屈しなかった。こういったエピソードを丹念に丹念に積み重ねた成果が、スパークスの解散ライブに見事に収斂されていた。

舞台の上の徳永が観客に向かって、「死ね! 死ね! 死ね! 死ね!」と大声で喚き散らす。会社の休憩室で僕は、人目をはばかりつつもこらえきれず泣いた。思えばあの冒頭の熱海の場面で、あほんだら(というコンビ名)の神谷が、自分たちの漫才には目もくれず過ぎていく通行人たち相手に、「地獄、地獄、地獄、地獄」と喚いていた、あのくだりと完全に呼応している。又吉さん、上手いなあ。

しかし、であるならば、それほどまでに感動的だった最後の漫才のシーンで、又吉さんはなぜこの小説を閉じてしまわなかったのだろうか?

あ、否定的な意味で言ってるんじゃないですよ。むしろ逆。僕にはちゃんと肯定的な説明ができる気がします。ひとつは、前にも書いたけれど、熱海の花火大会のシーンで始まった話を同じ熱海の花火大会で締めたかったという思い。

もうひとつは、この小説自体、弟子にしてやる見返りに神谷さんの伝記を書くよう依頼された徳永が、言われたままノートに綴った、人生まるごと漫才師であろうとしつづけた神谷の伝記そのものだからだ。なので、スパークスの漫才で終わるのはちょっと違う気がする。

とはいえ、途中からその伝記ノートには、スパークスの漫才のネタや徳永の雑感、はたまた徳永自身によるポエムのようなものまでが書かれた、という記述があるくらいだから、まあそんな厳格なわけじゃないんだけどね。

で、あとひとつですが、感動のシーンでかっこよく終わることに又吉さんの「照れ」があったのではないでしょうか。1年間も失踪していた神谷さんがいきなり現れ、なぜか巨乳になっている。余談というかオチというか、そんなの要る? というようなズッコケた話でもなければ、とてもこのみずみずしくも生真面目な青春小説を締めくくれそうもない。又吉さんは絶対対そう確信していたと思うなあ。

そしてここには「照れ」と同時に、お笑い芸人・又吉直樹さんが考える「笑い」とは何か? という本質みたいなものが見え隠れしているような気がします。これこそが又吉さんが求める「笑い」の真髄であると。もしかしてそれは、人間とは何か? 生きるとは何か? という根源的な問いに対する、又吉さんなりの真摯な答え、と言い替えてもいいかもしれませんね。

僕は、この小説は又吉さん自身の自画像なんだと思った。ちょうど先ごろ読んだばかりの『騎士団長殺し』が村上春樹さんの自画像であったように。『火花』は又吉直樹さんの自画像でもあるのだと。

どんなことにも他人の批評はついて回る。それからは逃れられない。神谷さんはそういう他人の意見や評判が気にならないのですか? という徳永の素直な疑問に、神谷さんは答える。 

「せやな、だから、唯一の方法は阿保になってな、感覚に正直に面白いかどうかだけで判断したらいいねん。他の奴の意見に左右されずに。もし、俺が人の作ったものの悪口ばっかり言い出したら、俺を殺してくれ。」(引用)

そして徳永は、ある日とうとう師匠の神谷を意識の底で殺してしまう。神のように崇めていた師匠を否定するとはつまりそういうことだ。『火花』はいわば騎士団長殺しならぬ、師匠殺しの物語だったのだ。なんてね。

ずいぶん遅くなったけど読んでよかったです。早い遅いなど関係ないのかもしれない。個人的に、北野武さんの映画『キッズリターン』みたいな読後感だったなあ。実際、例の「俺たちもう終わったのかなあ?」「バカヤローまだ始まってもいねーよ」というラストの名セリフを意識したように、小説の終わりに当たって徳永の主観がこうつぶやく。

生きている限り、バッドエンドはない。僕達はまだ途中だ。これから続きをやるのだ。(本文引用)

この話はひとまずこれで終わっているが、他にもたくさんの芸人・神谷と徳永たちがいるのだろうと思わせてくれる。芸人だけに限らず、すべての若者たちが、いつの時代も夢を追いかけ、いまも都会の喧騒のなかを息を切らして走り回っているのだろう。そういう僕自身は、もはやあのころから遥か手の届かない未来まで来てしまったんだなあと、少ししみじみとした気持ちになった。

とまあ、独りよがりに感傷的になっていても、本を読んでない人はおろか、あらすじさえ書いてない感想文ではいったいなんのこっちゃ、というような内容ですがどうかご容赦ください。

ところで、小説のタイトルだけど、2年前に話題になったときから『火花』をなぜか『花火』と間違うことが多くて、いっそどうして『花火』にしなかったのかなあと疑問に思っていた。それこそ北野武さんの代表作『HANA-BI』というのもあることだし。

詳細についてはなにも知らなかったけれど、漏れ聞くところによれば、熱海の花火の大会の漫才シーンから始まる物語であることはおぼろげながら理解していた。だったらなおさらのこと『花火』の方が自然じゃないのかしら、とやきもきしていたのだ。

実際読んでみたら、主人公の漫才コンビのコンビ名が「スパークス」だということがわかった時点で、ああ、と合点がいきましたけどね。だから『火花』かと。まあ、それだけの単純な理由でないことはいまでは容易く想像できますが。

――以上です。売れない若手芸人さんたちのリアルな実態など、同じ芸人・又吉さんならではのよく見知ったフィールドだった、というのを差し引いたとしても、僕はとっても面白かった。すごくよかった。大好きな作家がまたひとり誕生したなあ、とうれしくなりました。第2作『劇場』はすでに買ってあるので必ず読みます。 

火花 (文春文庫)

火花 (文春文庫)

 

  

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