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宮部みゆきさんの『ソロモンの偽証』を読んだ感想

今夜と来週の2週にわたり、宮部みゆきさん原作の『ソロモンの偽証』(前・後編)が金曜ロードショーで地上波初登場するらしいですね。残念ながら僕は映画版を見ていませんが、それは原作を読んだ直後の感動や興奮があまりにも大きすぎて、映画化には食指が動かなかったというか、正直不安しかなかったためです。その後、世間での評判を目や耳にしてなお、そのときの気持ちに変化はありません。まあ先のことまではわかりませんが。というわけで例によって別のブログに投稿していた原作の感想を、ちょうどいい機会ですからテレビ放映に便乗して再掲します。 (笑) 

 

宮部みゆきさん『ソロモンの偽証』を読んだ感想

宮部みゆきさんの『ソロモンの偽証』を読んだ。第Ⅰ部「事件」第Ⅱ部「決意」第Ⅲ部「法廷」の全3巻、2000頁をゆうに超えるこの大作を手にとってはじめはたじろいだが、ひとたび読みはじめるとあとはもう一気呵成だった。そうしていま、抜け殻のようになっている。

ストーリーの骨子はとてもシンプルだ。雪の降り積もったクリスマスの朝、中学校の校庭でこの学校の2年生柏木卓也の遺体が発見される。第一発見者も同じ学年の野田健一。クリスマスイブの深夜、同校の屋上から飛び降りて自殺したものだと警察はそう断定した。

ところがほどなくして、柏木が屋上から突き落とされる現場を見たという匿名の告発状が関係者に届く。差出人もやはり同じ中学校の2年生三宅樹里だということが読者にだけは知らされる。そこに主犯として名指しされたのは、大出俊次という札付きの不良だった。彼もまた同校の2年生。

果たして柏木卓也の死は自殺か他殺か。学校の先生、保護者、マスコミ、他でもない自分たち生徒自身の噂話やデマや嘘や隠し事などゴタゴタの渦に巻き込まれ、このままではもはや立ち行かないと焦った一部の生徒たちが、学校内裁判で真相を追求しようする。

――というようなストーリーです。以下、感想を書きますが、なにしろいまだに頭のなかがぼーっとした状態なので、たいしてまとまりもなく思いついた順にぽつりぽつり書いていきますね。

まず、被告人は大出俊次。彼の弁護人は神原和彦。検事は藤野涼子。それぞれには助手がついて、その他には判事も陪審員も廷吏までそのすべてを中学生が務めるという、本格的な学校内裁判の設定がユニークだった。眼目はいうまでもなく第Ⅲ部の「法廷」編にあるのだけど、それが際立つためには第Ⅰ部「事件」編のエンターテイメント性や、第Ⅱ部「決意」編のどちらかといえば地味で堅実な裏付けのような部分がとても重要になる。

つまり法廷に至るまでの過程を少しも疎かにせず、まるまる2巻分も費やし、じっくり腰を据えて周辺事情を掘りこんでいるのだ。いきなり開廷して、あとは証言のなかや回想のなかに逃げたりはしていないということだ。僕的にはそこでガツンとやられてしまったので、実は第Ⅲ部はもうどうでもよかったというか、この際結末がどろなろうと真実がどうであろうと構わないや、くらいの鷹揚な心境になっていたのでした。まあその上で、第Ⅲ部はそうとう迫力ある怒涛の展開でしたけどね。

そもそも宮部みゆきさんという人は十分信頼・安心できる作家で、そのなめらかな語り口とドライブ感には定評がある。それとはウラハラに、とくに本作では登場人物一人一人に寄り添い、心理描写を克明につづりながら丁寧に描き分けがなされていた。当り前のことなんでしょうが、会話も決して登場人物に順番に割り振られたものではなく、あくまでフィクションであっても十分リアリティが感じられる出来になっていたのがよかった。

あと、リアリティということでいえば、生徒たちがみんな何らかの事情で屈折している。エリートはエリートなりに、先生のお気に入りはお気に入りの生徒なりに。いじめっ子もいじめられっ子も、それから先生や大人たちもみんな、なんらかの屈折を抱えて生きているんだという点にも着目している。そしてまさにそのとおりだなあと僕は思った。

あえて誰が主役だとか関係なく、場面場面でここは誰の場なのかというのを意識しながら読む楽しさがあった。みんなにそのスポットが少しずつでも当たっている。目立たない生徒であれば、その目立たなさにスポットが当たるというような具合でね。

僕は主要登場人物のひとりである野田健一の成長がなにより読んでいて涙が出るくらいうれしかったし、個人的にこれは野田健一のドラマなんだと思った。野田健一の家庭問題、ことに彼が自分の本性と対峙する場面の迫力ったらなかった。全編を通してもあそこはひとつのハイライトだったと思う。

学校法廷は基本的には本物の法廷ルールに則っている。この縛りがすごく効いていた。それでいて、人や犯罪を裁くことに重きを置かず、決して公開処刑にはならない。真実の追及のために、ところどころあえて自分たち独自のルールを設けるなどの工夫があった。何から何まで本物の真似をするわけじゃなく、そのことも含めてみんなが納得するルールを話し合って公正に決めるのだ。さらに途中、本物の弁護士や刑事を証人として召喚することで、生徒たちにも、読者に対しても、よりわかりやすく裁判についての解説をしてくれるという念の入れようだった。

新味のない証言のなかにあえて新事実を紛れ込ませるという、読者にとっても驚きの手法があり、既に知り得ていることを再度聞かされる証人喚問といっても、僕は全然退屈しなかった。さすが手練れてるなあという印象を受ける。

裁判はね、作者の言葉を借りるならば、マップを持っている人と、マップの存在には気づいている人と、なんとなく予感がある人と、まったくそういうことを意識していない人とが渾然一体となって進行するのがスリリングで面白い。きっと本物もこんな雰囲気なんだろうなあと、実際の裁判を経験も傍聴したこともない僕ですが、そういうふうに思いました。

そしてここ重要なんだけど、結果終わってみれば関わった全員が傷ついているというね。案外本当の裁判でもそういうものかもしれないですね。でも傷つかないと先へ進めないことも確かにあるから。

さて、巷間指摘されるような登場人物がスーパー中学生過ぎるという批判は僕は当たらないと思う。中学生が裁判なんてどう考えても無理がある、成立しないだろう、と。どう考えてもふつうの中学生が使わない言葉を使うとか。しかしいっけんリアリティがないような設定も、それをあえてやることによって逆に裁判自体のリアリティをいい方に錯覚させるというか。いま目の前で繰り広げられている裁判が、中学生たちの裁判ごっこではなく、あたかも本物の裁判であるかのように錯覚させることに成功していたように僕は思うのですが。

それでもなお、いくら小説だといってもこの設定は無理だろうと勘繰る読者は、ここに登場する多くの保護者や先生たちと一緒で、彼らを信じていない大人として中学生たちに突き放されてしかるべきなんでしょうねえ。

それから、作品の背景としてちょうどバブル崩壊前夜の時代観もよく出ていてとても懐かしかったなあ。土地成金の大出俊次のお父さんとか、脱サラしようとする野田健二のお父さんとか。パソコンがない。ワープロが父親の部屋にだけはある。子どもたちはおろか大人たちでさえ携帯電話を持っていなかったあの時代。せいぜいポケベル、基本、家電話か公衆電話で。不良の大出俊次が家の窓のすぐ下にある公衆電話ボックスを、自分の部屋の電話代わりに使っているというエピソードはいかにもありそうで笑っちゃった。

森内先生まわりのエピソードは最初僕は不要かなあと思ったんだけどね、あとから考えるとあれで物語が縦への上積みだけでなく派生的に横へも広がり、その分の厚みが出たんだと思いますよ。他に類を見ない中学生たちの裁判劇でありながら、世の中って全部が全部、裁判で白黒つけられることばかりじゃなく、なんかよくわからないけど理不尽なことがいっぱいあるんだよね、という著者のメッセージのようなものを受け取った気がした。

正直、僕は途中のわりと早い段階で、具体的には裁判がはじまることが決まった時点から、ぼんやりとストーリーというか物語の帰結点は見えていた。けれどはじめの方に書いたみたいに、そこに至るまで焦らしに焦らしてくれるので、まあ好き嫌い分かれるかもだしれないが、僕は焦れながらも結構楽しむことができたのだ。

この本に関してはあまりネタバレしたくない。もしまだ本書を読む前にこれを読んでくれた人がいたとしても、僕の書いたストーリーの紹介や感想や解釈は、ごくごくほんの一部に過ぎないと思って安心してください。それと読後感が思った以上に爽やかなのもよかったということを最後に忘れずに付け加えておきたい。現役の中学生にいちばん読んでほしい小説だなあと思った。なあ、すげーぞオイ。 

 ――はい、というわけで映画『ソロモンの偽証』はいかがでしたか? 僕は念のためビデオ録画しましたし、なんなら他の手段でいつでも見られるので、まあそのうち原作の内容も興奮も忘れたころにふいと気が向いたら見るかもしれませんし一生見ないかもしれません。