ヒロシコ

 されど低糖質な日日

糖質制限によるライス残し問題について考えてみた

本は最後まで読むか途中でやめるか?

本を最後まで読むタイプか面白くなければ途中でやめるタイプかといえば僕は断然最後まで読むタイプだ。むろん面白い面白くないというのはあくまで個人的な感想にすぎない。どんなに面白くなくても絶対やめないという保証はないけれどほぼ85%くらいの確率はある。高い? それとも低い? これはサッカーのワールドカップのグループリーグで初戦に勝ったチームが決勝トーナメントに進出する確率とほぼ同じ(だからなにって話ですが)。途中でやめない理由はいくつか考えられる。たとえばもったいないとか。やめグセがつくとか。やめた次の行から面白くなったら悔しいとか。まあどれももっともらしい理由だけどなかなか「これ!」という決定的なものは正直ない。若いころはそんなでもなかった。なぜ変わったのかというとこれは単純な話でそもそも読む絶対量が圧倒的に少なくなったからだ。本に飢えてガツガツしてるという感じではなくなった。ただしこれも僕はそうだけど一般的に年齢との因果関係はわからない。大学院に通う上の子はいまとにかく手あたり次第に本が読みたい時期らしくいつ見ても読んでいる本が違う。「ずいぶん読むペースが速いな」とやっかみ半分にいうと「つまらなかったらどんどん途中でやめるからね」と上の子は屈託なく笑う。だいたい100ページを目安に続きを読むかやめるかを決めているそうだ。そういうのもひとつの考え方だと思うのでとくに否定も肯定もせず「ふーん」と聞き流すだけだ。それにほとんどの本は学校や区の図書館で借りてくる本なのでもったいないという感覚もないのだろう。一方僕は上の子と比べるまでもなくゆったりしたペースで1冊を読みとおす。一日1、2ページのこともあれば2、3行だけのこともある。調子がいいときは一気に最後までなんてこともごく希にある。もともと僕は性格的に決して根気強いわけではなくむしろ飽きっぽい方だ。だから面白くない本を途中でやめちゃう人は飽きっぽい人だというようないかにも紋切型な性格占いは当てにならない。そうでなくてもたまたま性に合わない本が続く場合だってあるはずで。ましてそこから恋愛観を探るなんて遊びとしては構わないけれどバカバカしくてあんなもの僕はまったく信じないしなんら意味があるとは思えないですね。意味がないといえばそもそも本を最後まで読むか途中でやめるかという二者択一のタイプ分け自体どこか無理があるでしょうしね。人生の残された時間は誰しも有限だからつまらない本にいつまでもかかわっていたくないという気持ちもよくわかるのだ。逆にだからこそ僕はじっくりと落ち着いたペースで本を読みたい。そして叶うことならそれが僕にとっていつも面白い本であることを願っている。

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食べものを残すのはもったいないのか?

ところでそういうふうに本の場合は自分のお金で買った本を途中で読むのをやめたとしても他人からもったいないだとかまして資源の無駄遣いだとかあまりとやかく咎められたりしないのはなぜなんだろう。もちろん自分でもそれほど罪の意識がない。それどころか買ったけど読まずにいることを「積読」などと吹聴して自嘲気味ではあるがどこかしら自慢げなあけすけなところすらあるくらいだ。いつかまた読むかもしれないということがあるからだろうか。僕個人の経験則からいっても積読本が消化される機会というのはめったにないにもかかわらずだ。あるいは最後まで読もうが読むまいが本を買えば買った時点で作家や出版社が潤うからだろうか。少なくともそういう仕事に従事する人たちの暮らしには役立っているわけだから。では食べものではどうなんでしょう。途中で食べるのをやめるつまり食べ物を残すのは一般的には非難される。だいいちにもったいない。そして多くの人はせっかく作ってくれた人のことを考えなさいと親に躾けられて育つ。なのに本の場合はせっかく書いた人のことを考えなさいと躾ける親はたぶんいない。食べたくても食べられない人のことを考えなさいといわれる。本を読みたくても読めない人のことを考えなさいと責める人にはお目にかかったことがない。この違いはなんでしょうね。食べものだってつくる人がいる以上それを最後まで食べようと途中で残そうとつくった人に幾ばくかのお金がいきわたるという点においては本も食べ物も同じはずなのに。どこかの誰かの役には立っているのだ。それでもやはり食べ物を途中で残すのはいけないことで本を読むのを途中で投げ出すのはそれほど非難に当たらない。もったいないとは考えられない。いつの時代の話だよと思うかもしれないが僕が子どものころの大昔の田舎の暮らしには家々の前の電信柱にところどころ一斗缶がくくりつけられていて夜のうちに各家庭から出た残飯をそのなかに出しておくと翌朝には養豚業者が引き取って行ってくれた。いまでいうリサイクルみたいなものがごくふつうに暮らしのなかに根づいていた。残飯を出す方と回収する側のお互いの利益が一致していたのだ。だがそれもいつのまにか廃れた。理由はいくつかあっただろうがここでは割愛する。少し前カレーチェーン「CoCo壱番屋」が廃棄した冷凍カツの不正転売問題がにわかにクローズアップされた。それに付随してコンビニ各社やファストフード店などの余剰在庫品の不正な横流しが問題視された。これらの廃棄品を不正に横流ししていたのは産業廃棄物処理業者でこの問題が真に根深いのはそれが不正に行われていたからだ。もし正規のルートで売る方と買う方と消費者が納得ずくの上で循環が行われるのだとしたら環境問題的には(経済活動的にも)むしろ称賛されるケースになりえたかもしれないのになあと思う。だって食べもの捨てるのもったいないわけでしょ?

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糖質制限によるライス残し問題について

近ごろではなんと回転すし屋さんでもネタだけ食べてシャリは残すという強者も後を絶たないそうだ。さすがにそれは道義的にマズいだろうと思うものの糖質制限をしている僕からしたらその気持ち決してわからなくはない。否定的な人の意見としてはライスを残すくらいなら最初から「要らないというか少なめにしてくれと言えよ」に尽きるのだろう。その言い分はもっともだがいざ糖質制限を実践しながら外食をしようとするといやそれよりつきあいでどうしても外食をせずにおれない事態が出来した場合「ライスなし」とか「ごはん半分」とは容易く言えない状況というのもときにはあるのだ。ごはん半分と頼んで本当に半分出てくることもめったにないし(たいていはふつうより少なめ程度)酷いときはライスなしといっても「うちではそういうのやってませんから」と無下に断られるケースだってある。定食屋さんで「ライスなし」を注文することの非常識さについて過敏に考えて躊躇する人がいるという現実もわかってほしいですね。それと糖質制限をしていることが知られるのが恥ずかしいというのは僕はないけれど同席している人が僕の病気のこと(糖尿病)や糖質制限に必ずしも理解ある人ばかりとは限らないというのある。いちいち説明を求められるのも面倒くさいものだ。糖質制限をダイエット目的で実践している人ばかりではないということも僕は声を大にして言いたいです。大戸屋さんやほとんどのファミレスはおかずを単品で注文できるから助かる。だけど店員さんによっては不思議そうに「ライスはつきませんが?」とか「ライスはいいですか?」と念押しされることもあってそれはそれでちょっとしたストレスになるのだ。願わくばその分の料金でサラダが一品つくとか好きなサイドメニューをひとつふたつ選べるとかさそういうシステムがもっともっとふつうになるといいなあと思います。