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佐藤正午『鳩の撃退法』(上)(下)を読んだ感想

佐藤正午さんの『鳩の撃退法』(上)(下)を読んだ。冒頭いっけんアットホームな滑り出しから行きつ戻りつするこのなんというか、バタバタとした、それでいてあとから振り返るときちんと計算されつくされている物語を、僕にしてはだけど、まさに一気に読みとおした。

主人公はかつて直木賞を2回も3回も受賞したことがある(!)という小説家、津田伸一。いまは地方都市の風俗店「女優倶楽部」で、デリヘリ嬢の送迎ドライバーをやりながら糊口をしのいでいる。

「女優倶楽部」はデリヘル嬢の源氏名がみな往年の大女優の名前になっている。高峰秀子とか浅丘ルリ子とか小川真由美とか。社長は成瀬己喜男映画の大ファンで、暇さえあればいつも成瀬の映画を見ているという人。

まあでもそういうことはほんのくすぐり程度の話だ。本筋は津田伸一が深夜のいきつけのドーナッツショップで見知らぬ男と言葉を交わすところから始まる。その男、幸地秀吉は買ったばかりの新刊本を読んでいて、津田はいま自分が読んでいる『ピーターパン』の話をきっかけに幸地と知り合いになる。

が、このふたりが意気投合して何かをするわけでも、大ゲンカしてそこから大事件に発展するわけでもなく、実はふたりの出会いはこの夜のこの1回きりで、幸地は妻と幼い娘ともども、まるで神隠しにあったみたいに忽然と行方をくらますのだ。

一方津田は、房州書店という古本屋の老人から3千4百万という大金が詰まったキャリーバックを形見として預かる。ところが札束のなかに偽札が混入していた。そのせいで津田伸一はたちまち裏社会に付け狙われ、倉田という本通り裏の "あの人" の陰におびえることになる。

――という、なんだかよくわからない話ですけど、とにかくそんな具合に『ピーターパン』と偽札を巡って謎が謎呼び、抱腹絶倒、ハチャメチャに面白い悲喜こもごものドタバタ騒動が巻き起こるのだ。

なんといっても津田や幸地や倉田や房州老人やデリヘルの社長はもちろん、その他の登場人物たちがみんな生き生きしているのがよかった。それがイチバンだもの。

ドーナッツショップの店員・沼本、床屋のまえだ、不倫相手の郵便局員、バー「スピン」のバーテン、バー「チキチキ」のママやホステスたち、中野ふれあいロードのバー「オリビア」のママ・加奈子先輩、鳥飼なおみ、……等々。

ぜんぜん無関係だと思われた人物があっと驚く場面で繋がり、あのときのあの人が、そうかあの人だったのか! という大小まじえた驚きの連続に、端役に至るまでただのひとりも疎かにできないという。

考えてみれば津田伸一という名前だって、なんだか微妙に千葉真一に似ている。だからというわけでもないだろうが、物語は一転ハードボイルドふうなタッチになったりするから可笑しい。あくまでも、ふうな、だけどね。

他にもミステリーあり、恋愛あり、友情あり、不倫あり、エロまであって盛りだくさん。あと特筆すべきは軽妙洒脱な会話がすばらしく楽しいこと。それと携帯電話を逆手にとった現代版のすれ違いとか、アイデアも実に豊富だった。

ちょっとネタバレすると、メタ小説でもあるんですよねこれ。現実の出来事(といってもそれもフィクションだけど)と、津田伸一が書いている小説と、著者である佐藤正午さんが書いた小説とが渾然一体となっていくという仕掛けなのだ。

おまけに「いつ、どこで、だれが」という小説を書く上での基本に忠実であろうとする津田が、元々そういう細かいことが気になってしかたがない性分故か、単純な話をよけい複雑にしていく。そうしてどんな些細な出来事にも油断がならない伏線が張り巡らされている。

その絡まってこんがらがった幾重もの糸が徐々に解けていき、沖に漂流して浮き沈みする忘れ去られたブイのような伏線があらかた回収されたときの快感は、こればかりは味わったものでなければわからないだろうなあと思った。

でもだからといって書きすぎる too much information (いわゆるTMI)ということもない。なにもかもが白日の下に晒されるというわけではない。幾つかの謎は謎のまま、そのあたりの節度が余韻という形で残るところもよかった。

あ、ちなみに本書を読んだからといって、実用的な鳩の撃退法が書いてあるわけではないことは、くれぐれも忘れずいっておきたいと思います。大傑作ですよ。 

[まとめ買い] 鳩の撃退法

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