綿矢りささんの『ひらいて』を読む。実は初綿矢りさ。途中まで挑戦したことはなんどかあるが最後まで読んだのはこれがはじめて。今回もやはり最初はちょっと戸惑った。なんちゅうか、筆力に圧倒されてひとつの言葉さえも疎かにできないような窮屈さを覚えた。
でもだんだん慣れてくる。
高校3年生の「私」には、パッと見冴えないがなぜか好きになってしまった同級生の男子がいる。彼は「たとえ」というちょっと変わった名前を持っている。「私」はあの手この手を尽くして「たとえ」を振り向かせようとするがどうしてもうまくいかない。
やがて「たとえ」には他に好きな女の子がいることがわかった。彼女は「美雪」といい、「たとえ」とは同じ塾に通っているという。ふたりは中学生のころから密かにつきあっていた。
ここで「私」がとった行動が凄まじく利己的で、行き場を失った恋心は呆れるくらいおぞましい方向へ突き進んでいく。好きな男子に振り向いてもらえない、なのにますます自分はその男子にのめり込んでいく。「私」は「私」がきっと許せなくなったのかもしれない。
いや、そうぼくが思っただけで本当のところはわかりませんよ。ぼくのようなおじーさんにとって高校3年生女子の心境ほどおよそ縁遠いものはない。それでも少しはわかるような気がするのは、周りを傷つけずにはおれない自我の痛々しさとか残酷さとか。純粋であればあるほど醜いという。
詳しくは書きませんが、中盤から終盤にかけての暴走感が半端ない感じでぼくはちょっと尻込みしちゃった。でもこの時期の女子ってみんな多かれ少なかれこういう感情を抱えて、でも圧倒的大部分はそれを押し殺して生きてるのかなあと思ったらため息が出た。
世間の圧倒的大部分の男子はもうちょっとシンプルに性欲とかに直結するような気がしたけど、それはぼくだけだったのかなあ。いずれにせよ恋愛もそうだけど受験とか、大学行ったり就職したりして仲間と別れたり親元や田舎をもうすぐ離れるんだという高揚感や寂しさがどこかにあるしね。
横道にそれるけど「たとえ」という男子のこと、ぼくはいま売れっ子俳優の東出昌大さんを途中からイメージして読んでいた。ぶっきらぼうな台詞回しがピッタリな感じがした。ほかの登場人物の配役はとくに思いつかない。いっそ橋本愛さんと能年玲奈さんもいいかもなんて。年齢的なアレはともかく。
最後に「ひらいて」というこっちも少し風変わりなタイトルの意味について考えてみた。――《ここからネタバレあります》――ラスト「私」が折り鶴を元の四角い千代紙にひらいていく描写があるので、直接的にはそういう意味なんだろうと思います。
で、おそらく他にもいろいろ別な意味も込められているのだろうが、ひとつは折り鶴のように複雑に折り重なった心を「私」がひらくということ。閉じこもっていた殻をひらいて「私」がなかから出るということ。あとはまあ、閉じていた目を開ける(ひらく)ということ。
う~ん、ここ本当は書かない方がいいのかもしれないけど、いちばん最後に「私」が自殺して終わるという、つまり閉じて終わるやり方もあったと思うけどそうしなかった。という意味で、ひらいて終わるとかね。
好きな人ができてもそれで相手のために何かをしてあげるということがなく、あくまで自分のためにしか何かをしなかった「私」が、「たとえ」の父親を殴る行為ではじめて他人のために何かをした。その瞬間、「私」は「愛」という固有の名前を持ったのだと思う。