ヒロシコ

 されど低糖質な日日

芥川賞受賞作/小野正嗣『九年前の祈り』を読んだ感想

『文藝春秋』3月号芥川賞発表号に全文掲載された小野正嗣さんの『九年前の祈り』を読む。

主人公のさなえはカナダ人の男と同棲して男とのあいだに希敏(ケビン)というひとり息子をもうける。しかし男は早苗のもとを去る。希敏は精神的に不安定になり、都会の孤独に耐えられなくなったさなえは生まれ故郷の小さな入り江の集落へと帰ってくる。

父母をはじめとする故郷の人々はさなえと希敏を温かく迎え入れてくれたものの、土着性の高い土地柄ゆえか、ときに閉塞感で押し潰されそうになりながら毎日を過ごすことになる。

そんなさなえが「みっちゃん姉」と慕う自分の母くらいの女性――彼女とは九年前一緒にカナダ旅行をしたとき知り合った――の息子が重篤な病で大学病院に入院中であることを聞き、見舞いに行くと決めるまでの短い期間の話だ。

なにか大きな出来事が起こるわけではないが、さなえのなかで九年前の記憶と現在が往ったり来たり交錯して、現実と非現実、土地を訪れた目の前の観光客とみっちゃん姉の姿、息子の希敏とみっちゃん姉の息子や観光客の子どもまでもがあやしげに混在する。

カナダの教会で見たみっちゃん姉の祈りと現在のさなえの祈りがいつしか重なり合い、不思議な心象風景が魅力的に描かれている。

ぼくも田舎の人間だからよく理解できるが、ユーモアや大らかさと、噂話があっというまに集落に広まる閉鎖生や、薄気味悪いほどの底意地の悪さみたいなものは一枚のコインの裏表だ。その息苦しさに耐えられなくてぼくは故郷を出た人間だから。

自分の与り知らぬよそ者には、離れた場所からそおっと模様眺めを決め込むか、愛想笑いを浮かべながらおっかなびっくり近づき棒の先っぽで突くように触れてみるか。たとえかわいい孫であっても、懐に入ってこようとしない孫はしょせん他者、集落の言葉でいうガイコツジン(外国人)でしかない。

田舎の人間だからいい人で大らかな性格だとは限らない。反対に都会の人だから冷淡だとは限らないのと同じように。けれどさなえはもはやこの集落で生きていくほかない人間の悲しみを身にまとっている。その悲しみがわが子の未来へわずかな希望の手を離すまいと祈る気持ちと重なってくる。

祈りの手は九年前のカナダ旅行の折り、混雑した地下鉄のホームで迷子にならないようにみんなで手を繋ごうと決めて電車に乗り込んだときの「人間の鎖」の手と重なり、にもかかわらず手を離して迷子になった2人のおばちゃんたちの無事を祈るみっちゃん姉の祈りの手に重なる。

教会のステンドグラス越しに差し込む得もいわれぬやさしい光のなかで、膝を折り頭を垂れぎゅっと握り合わせた拳の上に額を乗せて祈るみっちゃん姉。祈りはいったいどこから来てどこへ届くのだろう。

あのときの祈りはいま、重篤な病で手術・入院を余儀なくされた他でもないみっちゃん姉の息子さんの快復を祈る気持ちと重なり、わが子を手放すまいと握りしめる小さな拳へと重なる。時間も場所も人も飛び越え、九年前の祈りはそのまま九年分の祈りになる。

カナダのホテルで同室になったみっちゃん姉が、時差ボケと疲れで眠れない夜、窓の外の景色をぼんやり眺めながら街がきれいなのはあんなふうに夜中に清掃車が走りまわって効率的な仕事をしているせいなのね、とさなえに語りかける場面の美しさったらない。

みっちゃん姉の旦那さんと(いま入院中の)息子は村の民間の清掃会社で働いているという。そうかと思うと、田舎のおばちゃんたちの賑やかなカナダ旅行のエピソードの楽しさったらなかった。飛行機のなかでむずがる赤ん坊を見守るおばちゃんたちの様子を描いた文章の詩のようなリズムがよかった。

まこと。
泣くんと寝るんが仕事じゃ。
まこと、まこと。
どんぶん泣いて、疲れて、寝るんじゃ。
まこと、まこと。
笑い声が上がる。しーっ。暗闇のどこかで誰かが黙れと叫ぶ代わりに歯のあいだに吐息をこすりつける。

ぎゅっと手を握りしめて祈るならば、どんな悲しみにも「救い」はあるのだとぼくは信じたいですね。とても好きな小説です。 

九年前の祈り (講談社文庫)

九年前の祈り (講談社文庫)