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チャド・ハーバック『守備の極意』を読んだ感想

チャド・ハーバックさんの『守備の極意』(上)(下)を読む。守備というのは野球の守備のこと。この題材にしては珍しく、主人公がピッチャーでもホームランバッターでもない。ヘンリーが守るのはショートだ。

ショートというのは僕の中でいちばん野球が上手い人が守るポジションという印象がある。そういうことでいえば華やかなポジションには違いないが、それにしたって同じ野球においてもバッティングと比べて守備はどちらかといえば地味な方だ。

しかもね、この小説で話題になるのは、いまにも外野に抜けようかという強烈な当たりを横っ飛びして捕球→ファーストへ矢のような送球→というファインプレーではなく、もっぱら正面に転がってくる打球を同じような動作で捕球し素早く正確に一塁へ送球するような、いちばん地味な反復運動なんだよね。

ヘンリーはそういう守備をくり返し練習していつしか絶対エラーをしないショートになった。かつてプロで活躍した名選手アパリシオ・ロドリゲスが書いた『守備の極意』という本をバイブルのように持ち歩き、暗記するほど何度も読み返す。目覚めてから眠りに落ちるまでヘンリーは心の中でゴロをさばく。

ひょっとしてこれガチガチの野球小説かも、という予想で僕はなおも先を読み進んだ。大学野球部の1年生正捕手マイク・シュウォーツが、小柄な高校生ヘンリーの試合後の守備練習に偶然目を留める。職人的ボールさばきや芸術的センスに惹かれヘンリーを強引に大学の野球部にスカウトする。

ヘンリーの入部を機にシュウォーツは弱小チームの立て直しに奮闘。彼の元で課されるストイックな練習と毎日のプロテインのたまもので、ヘンリーの体も以前に比べると少しは大きくなった。からっきしだったバッティングもどうにかさまになった。

そうしてとうとう3年生のとき、ヘンリーは全米の大学無失策記録に並ぶ。大リーグのスカウトの目にも留まる。ところが試合中たった一度のなんでもないミスで、以来ヘンリーはつまらないミスを連発するようになって――。

僕が長々とこの小説のあらすじを書いていると思うでしょうが、実はここまででまだ上巻の半分くらいです。ここから残り半分と下巻の全部に渡ってヘンリーは苦悩することになる。同時にヘンリーを取り巻く人々の苦悩もここからはじまる。

登場人物の誰もがそれぞれの悩みを抱えてもがき苦しむ。もちろん悩みのない人などいない。とはいえ、たとえ小説のなかの人物だとわかっていても、人が悩み苦しむのをすぐそばで見ていてなにも手を貸してやれないのはこんなにもツライのかと。

ヘンリーの場合、なにがどう悪いのかわからない。どこかが故障しているわけでもない。ボールがグラブのポケットに収まったときの感触がほんの少し違う。送球動作に入ったときのほんのちょっとしたボールの握り。これまでが完璧だっただけに繊細なことを意識してそれがかえってエラーにつながる。

「バッティングにスランプはあるが守備にスランプはない」とは日本のプロ野球でもよく耳にするが、あれは嘘なの? 本人はもちろん周りの誰にもコーチにもこの問題は解決できないのは、おそらく原因が野球以外のところ、それも本人の心の中にあるからではないかと想像される。その原因はなんだろう?

「みな口々に、リラックスしろ、考えるのをやめろ、と言う。自分自身であれ、ボールになれ、がんばりすぎるな……。だが、がんばりすぎないようにがんばるには限界があって、最後にはがんばりすぎてしまう。みなが言うとおり、がんばるのは場違い、完全な間違いなのに。」

この小説、ガチガチの野球小説という僕の予想に反して、むしろ青春小説という趣きなんですね。大学の寮で3年間ルームメイトのオーエンとは野球部の同期。若いころのすべてをメルビルの『白鯨』に捧げた学長ガートとその奔放な娘ペラ。そしてシュウォーツとヘンリーとが織り成す青春群像。

決して爽やかとはいえないかもしれないけど、泥臭く汗臭く、学問もスポーツも恋愛も仕事も、将来に対する憧れも不安も、翻訳本のタイトルをもじったいい方をすれば「青春の極意」がいっぱい詰まった一冊といえるかもしれない。

登場人物でいうと僕は学長の年齢にいちばん近い立場なので、なんとなく寂しく悲しい気持ちを抱えながら本を閉じた。「ああもうあの若いころはやり直せないんだなあ」というのがいまの素直な感想です。

ヘンリーやシュウォーツもいいが、なんといってもオーエンのキャラクターが群を抜いてユニークでかわいらしい。この人ゲイなんだけど、あれこれ説明するより僕がとっても好きな場面があって、「野球のどこか好きなの?」とヘンリーがオーエンに尋ねると、「ぼんやりできる時間が多いし、ユニフォームにポケットがたくさんあるしね」と答えるところ。笑っちゃう。

たしかに野球ってほかのスポーツと違ってレギュラーで試合に出場している選手でも、ぼんやりする時間(といっては失礼かもしれないけど)激しく動き回ってない時間がたくさんあると僕も思っていた。オーエンではないが半分はベンチで座っているしね。

でもオーエンのそういう考えがこの小説を予想外の展開に向かわせるきっかけになるのだから、世の中なにが起こるかわからないのだ。 

守備の極意(上)

守備の極意(上)

 
守備の極意(下)

守備の極意(下)