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映画ケン・ローチ『ジミー、野を駆ける伝説』感想

ケン・ローチ監督『ジミー、野を駆ける伝説』を見に行く。イギリスからの独立とその後に締結された条約をめぐる内戦で国を追われていたアイルランドの元活動家ジミー・グラントンが、10年ぶりに祖国の地を踏む。故郷の村では母親やかつての恋人ウーナや仲間たちがジミーを歓迎した。

ジミーが危険を承知で帰ってきたのは、畑仕事でもして年老いた母親の面倒を見ながら穏やかに暮らすつもりだったからだ。ところが村の若者たちはジミーを放っておいてはくれなかった。彼らはいま教会権力に牛耳られて自由に学ぶことも歌うことも踊ることも禁止されているのだ。

ジミーにあの伝説のホールを再興してほしいと懇願する。伝説のホールとは、かつて若者だったジミーたち自身が自由に学び歌い踊るための場所を求めて自分たちの力で作り上げたホールだった。悩み抜いた末ジミーはホールを再開することにする。――というふうにして映画ははじまっていきます。

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ケン・ローチ監督の傑作『麦の穂をゆらす風』と同じくアイルランド社会の複雑な対立構造がここにも暗い影を落としている。『麦の穂』が親子兄弟で敵味方に分かれて戦う兵士たちの話だったのに対して、『ジミー』は労働者階級や農民たちの話だ。でもいってることは何も違わない。

同じ村の教会に通う信者たちが敵と味方に分かれる。世代間で親子の意見が対立する。教会権力と結託したファシストとジミーたちコミュニストが睨み合う。大地主と小作人が土地や家の賃借契約をめぐって争う。おなじ教会内においても若い神父が老神父に異を唱える。

ジミーを逮捕するためにやってきた警官たちも同じ村で育った。ジミーのお母さんとも顔馴染。昔は学校でそのお母さんに本の読み聞かせをしてもらった連中なのだ。だから手荒な真似もできない。「お茶でも飲んで待ってて」と勧められのんびりくつろいでいる間にジミーに逃げられてしまう。

こういう長閑な捕り物劇をユーモアたっぷりに見せてはいるものの、滑稽さの裏側に潜む残酷さと悲しみに僕は泣きそうになってしまった。同じ村の小さな共同体の中でひょっとしたら机を並べて学んだ者同士が、大人になって追われる立場と追う立場とに分かれてしまう。

ほとんどの警官たちは政治思想・権力の思想などとは無関係に職務に忠実でジミーを捕えにきた連中なのだろう。上司の命令に従わなければまたたく間に自分たちが失職して明日からの食い扶持に困ることになる。家族を養っていけなくなる。そういう社会情勢を背景としているのだ。

ジミーのホールや彼の活動はアイルランド政府全体からするとほとんどたいした問題ではないが、村の教会の老神父にとっては一大事で、自分の教区でそういう自由を許すことはできない。ジミーのようなカリスマ性があって大衆に支持される人物を英雄にしてはいけないと仇敵のファシストはいう。

その一方で、ジミーを排斥しようとする権化のような老神父でさえ、ジミーの無私で屈強な意思には実は一目置いているのだ。そしてジミーもまたこの老神父に対してはどこか自分と似通った信念のようなものを感じている。

こういう人間や人間関係の機微を見つめる温かい眼差し、どんな最悪な状況にもけっして絶望していない姿勢こそ、甘いといえば甘いのかもしれないが僕はケン・ローチさんの真骨頂だなあと思った。

緑あふれるアイルランドの片田舎の自然と、『麦の穂』のハーリングを思わせる若者たちの力強く弾けるようなダンス。かつての若者たちのはじめは遠慮がちでやがて自由と生を謳歌する歌声やダンス。鍵をかけたホールで月明かりを頼りにジミーとウーナがふたりだけで踊るシーンのハッと息をのむ美しさ。

ジミー・グラントンは実在した人物だという。この名もなき英雄を演じるのは元ザ・スパイダースの(って知らないか)井上順さんを若くしてもうちょっとかっこよくしたような人。タバコの飲み方に色気がある。そして若いころの僕ならその吸いさしのタバコの捨て方にすっかりかぶれただろう。

原題は「Jimmy's Hall」。大きな歴史的背景はあるがこの映画の核心はむしろシンプルで、アイルランドの片田舎のホールを巡る案外こじんまりした話だ。「ホールがなくなってもここで学んだことは消えないのよ」と子どもたちにそう説く大人のセリフがぐっとくる。 

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