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松家仁之『優雅なのかどうか、わからない』を読んだ感想

松家仁之さんの『優雅なのかどうか、わからない』を読む。舞台は東京の吉祥寺。主人公は出版社勤務で離婚したばかりの40代後半の男。代々木のマンションと高級家具ひと揃えを別れた奥さんに譲り、自分は家を出て井の頭公園に面した中古の一軒家を賃貸契約する。

風変わりな大家さんからはいくつかの条件つきながら古い家を自由に改装して良いという許可を得た。条件の中にはふみという名の外猫にときどきエサをあげることというのもある。男はさっそく知り合いの建築家を呼び寄せ家の改装に着手する。

経済的にはそうとう余裕があるらしいことがわかる。傍目には優雅な暮らしぶりに映るし実際そういうふうにいわれたりもする。趣味のいい家具に囲まれ、床のワックスがけと手際のいい料理。洒落たバーで酒を飲み、高級スーパーで食材を買う。都会では珍しい暖炉と井の頭公園の四季折々の自然。

奥さんと別れたばかりだというのにほとんど間をおかずあらたな恋人まで出現する。引っ越した先で偶然、かつてつきあっていた(不倫関係にあった)若い女性と再会するのだ。どうでもいいことだけど、ことごとく僕とは無縁な人生があるものだなあと感心する。

本人は自分の暮らしぶりが優雅だといわれてもピンとこないらしい。むしろそれなりに煩雑な問題を抱えていると思っている。たしかにひとつひとつの問題はそれなりに深刻かもしれないが、客観的に見れば「全然マシ」という感じしかしない。そういう意味ではこのタイトルは若干の厭味も込めて秀逸だ。

まあ、すべてにおいて対象との微妙な距離感をつかみかねてる男の話だといっていいでしょうね。本人の認識と他人に自分がどう見られているかという距離感もそうだし。他人の中にはもちろん元の奥さんも含まれるが。あと次々と自分好みに改装できる家だって、そうはいっても状況次第でいつ立ち退かなければならないかわからない借家だし。

恋人のような女性との関係にしてもそうだ。彼女とはヨリが戻ったのかどうかはっきりしない。お互い住んでいる家も歩いて10分とかからない微妙な距離にある。それに彼女は認知症の父親と二人暮らしで、いまはまだ頼まれたら手助けをする程度だが将来的にもし結婚ということになれば、たちまち親の介護問題を抱えることになる。

別れた奥さんとの間にはひとり息子がいる。成人してアメリカに住んでいるから手はかからない。と思いきや久しぶりにスカイプで連絡を寄こしてきた息子は、いきなり同性愛の恋人らしき外国人を紹介して主人公を戸惑わせる。どう対処していいかわからない。

仕事は順調だけど出版社といっても昔ほど羽振りがいいわけではない。先のことは皆目わからない。そうやって身の回りのすべてを見渡すと、決して不幸ではないし恵まれているのはわかるが、さりとて現状が幸せで満足かといわれたらイマイチその確信が持てないといった具合なのだ。

読んでいて正直癪に障るところがないかといえばウソになる。ただしこういうエッセイのようなさらりと上澄みを掬ったおしゃれな小説も僕は全然ありだと思う。キライではない。沈殿した泥の底に手を突っ込んで掻き回したような私小説ばかりが小説ではないのだから。

本のカバー写真もミア・ファローさんで、これもすごくセンスあるなあ。小説の中にもダステイン・ホフマンさんと共演した『ジョンとメリー』の話がまるで本作の要約のように出てくる。すべてを語りきらず物語をオープンのまま閉じるとこもまた映画の結末を意識したものだろう。

寂しさのアイコンとして外猫ふみをあしらい、ふみは恋人が家に遊びに来るとなぜか出てこなくて彼女が帰っていくとどこからともなくふらりと現れる。主人公が恋人とベッドをともにするようになると、外猫のふみは突然夜中に家に上がり込むようになり男のベッドに入ってくる。

そうしていよいよ男と恋人の仲が深まると、今度は忽然とどこかへ行方をくらますという。そういうところの描写もあまりくどくどと鼻につかない適度で、全体的にも非常に心地よいリズムの文章でよかった。

優雅なのかどうかわからない、というのを羨ましがったり笑うのは簡単だけど、精神的にも物質的にも優雅さや幸せなどという抽象的な概念は個人差や程度差があって、第三者がどうのこうのと決めつけられないものなので、ここは書かれていることを素直に受け取るしかないだろうなあと思う。

著者は元編集者でこの小説の主人公も出版社勤務ということから、幾分自伝的な要素もあるのかもしれない。そうであるとするならばよけい、最後に主人公の男が一歩前へ一歩深く踏み込み、微妙な距離感を縮める覚悟を決めた瞬間を見届けたところで本を閉じるのが相応しい気がしました。 

優雅なのかどうか、わからない

優雅なのかどうか、わからない