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水村美苗『 母の遺産 新聞小説』を読んだ感想~『金色夜叉』とか『家政婦は見た』とか

水村美苗さんの『母の遺産 新聞小説』を読みおわる。新聞小説というサブタイトルには二重の意味があって、ひとつはこの小説自体が実際新聞に連載された小説であるということ。もうひとつは、尾崎紅葉の『金色夜叉』という明治時代の代表的な新聞小説の影が通奏低音のように流れているという意味で。

通奏低音ということでいえば、ほかにもカミュの『異邦人』なんかもそう。とくに有名な冒頭の一行「Aujourd'hui, maman est morte. ―きょう、ママンが死んだ」にあらわれる、主人公ムルソーの心情とこの小説の主人公・美津紀の心情とは多分に重なり合う部分がある。

あとはまあフローベールの『ボヴァリー夫人』も積極的に意識されている。美津紀がはじめて読んだフランス語の小説として。あるいは出版社から新訳本を出したいという話があってその翻訳者に美津紀の名前があがるというふうに。

『ボヴァリー夫人』はいわゆる「恋愛小説を読みすぎたフランスの田舎女の話」であり、さらに「これを読んで自分のことを書いたものだと思い込んだフランス女がわんさか出てきた小説」というのは(あとで書くが)またべつの意味で『母の遺産』とこっちも相通じるところがあるのだ。

そもそも著者の水村さんは、デビュー作で漱石の未完の小説『明暗』の続編に挑戦してみたりエミリー・ブロンテの『嵐が丘』を日本の風土に焼き直してみたりと、毎作ごとに面白い趣向を用意してくれるのでそれだけでも楽しい。

加えて物語の推進力が強引ともいえるくらい強く、たえず続きが気になるという根っからのストーリーテラーでもある。内容はそういっちゃうとアレだけど、ホレたハレたときわめて大衆迎合的な通俗小説なのだが、面白さは超一級品だと僕は思っている。

主人公・美津紀は50代の主婦で大学の非常勤講師のかたわら翻訳も手掛けている。夫の哲夫には自分よりは若い(さすがに20代というわけにはいかないが)愛人がいる。彼女の姉・奈津紀は玉の輿に乗り上流階級の仲間入りを果たしたものの婚家のなかでひとり疎外感を味わっている、という設定。

この姉妹の母親という人が、わがままを絵に描いたような、とにかくぜいたく好き派手好き自己主張が激しい女なのだ。それだけでなくふたりの娘たちをそれなりの素養と教養ある女に育て上げようと必死で生きてきた。娘たちのなかに自分の叶わなかった夢や憧れを生きようとするタイプの母親ですね。

とくに妹の美津紀は、この母にさんざんふりまわされてきたのだ。物語自体は母・紀子の死からはじまるのだが、やがてわかるのは本人の「もう死にたいわよ」というクチグセとは裏腹に、紀子の生命力というか生への執着は恐ろしいほど強く、現代日本の高度先進医療や介護サービスの充実ぶりと相まって、美津紀の母はそう簡単には死んでくれない。

そうして死の間際まで美津紀は母にふりまわされることになる。彼女がひそかに望んだ母の死は、すなわち母の呪縛から解放されること。同時に小説のテーマでもある母の遺産の話にもつながるわけで、このあたり具体的な数字がくりかえしリアルに計算されるので読んでいてイヤになっちゃう人も出てくるだろうなあと可笑しくなった。

まあそうやって物語の前半は、生きているころの母のとくに末期のわがまま放題でぜいたくな暮らしぶりが描かれ、後半は箱根のホテルに長逗留しながら、美津紀が亡き母と彼女の生い立ちにまつわる一族の呪縛について思いを馳せる。ちょっとしたミステリー風味もそこに加わるという至れり尽くせり。

母の人生をふりかえるとき切っても切れないのが母の母、つまり美津紀にとっては祖母にあたる人の一生で、この祖母という人がこれ笑っちゃうのは、新聞小説として連載された『金色夜叉』を毎回熱心に読み、「まるで自分のことが書いてある」と思い込んじゃった明治女なのだ。

例のあの『ボヴァリー夫人』にフランス女がこぞって勘ちがいしたように。「日本に新聞小説というものがなければ、母も、私たちも、生を受けることはなかった」というくらい『金色夜叉』によって人生を狂わされた祖母。

そして美津紀自身も『異邦人』を「自分の物語だと思い込んでいる」ふしもなきにしもあらずで、実際ムルソーに自身を投影していたからこそ、Aujourd'hui, maman est morte. という冒頭の一行が、本作中いくどとなくくり返されるのだろう。

いまどき「愛をとるか、金をとるか」というテーマはさすがにありえないくらい古くさい。人生にはもっと複雑なからくりがあるのだと承知の上で、著者が『金色夜叉』のテーマをなぞりあえてそういう遊びをしたのでしょうね。

さらに金銭的にそうとう恵まれた次元の苦労話だから、あるいは読んで白ける人もいるかもしれないが、僕は面白かったです。羨ましいとかいってもはじまらないし、老人介護は本来こんなに楽じゃないなどと憤ってもしょせん筋違いなのだと思う。

悪趣味かもしれないが、『家政婦は見た』気分でお金持ちの生活にはお金持ちなりの苦労があるんだなあという覗き趣味でいいのではないかと。

美津紀と彼女の親友が、「若いころは専業主婦に納まった女の方が早く老けこむと思っていたけど、歳がいったら逆に職に就いた女ほど早く老いが顔に出るわね」というようなことをいうのが……(僕は男だけども)さもありなんと思った。 

母の遺産 新聞小説(上) (中公文庫)

母の遺産 新聞小説(上) (中公文庫)

 
母の遺産 新聞小説(下) (中公文庫)

母の遺産 新聞小説(下) (中公文庫)