ヒロシコ

 されど低糖質な日日

アゴタ・クリストフの小説の映画化『悪童日記』感想

『悪童日記』を見に行く。アゴタ・クリストフの小説の映画化。この原作を読んだのはもうずいぶん前のことなのに、映画を見ていたらあのときの情景が、本の内容はもとより読書にまつわるさまざまなことまでもが、ありありと甦ってきた。原作同様、暗く重く陰鬱な映画だったが、すごく見応えがあった。

――以下、ネタバレあります。

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第2次大戦も終わりのころ。双子の兄弟が祖母ひとり暮らす田舎へ疎開してくる。祖母は村人から魔女といわれ忌み嫌われていた。兄弟は、祖母から「ダダ飯は食わせない」と、薪割りや水汲みなど子どもにとっては酷い重労働を強いられる。まわりの大人たちからも理不尽な扱いを受ける。

疎開する前、お母さんから「どんなことがあっても強くなりなさい」といわれ、軍人のお父さんからは「お前たちの様子が知りたいから毎日日記をつけなさい。ほんとうのことを書くんだよ」といわれノートを渡される。そのときのノートがこの「悪童日記」というわけだ。

彼らは両親のいいつけに従い、祖母の嫌がらせにも耐え、ろくでもない大人たち相手にもへこたれず、肉体的にも精神的にも強くなろうとする。聖書を読んで勉強し、痛みを克服するため互いに殴りあい、わざと寂しくなるようなこと悲しくなるようなこと怖いこと残酷なことをして、そういうことが平気になるよう目を背けないでいられるよう訓練する。彼らのたったひとつの目的は、とにかく生き抜くこと。

僕は、この映画を見ていていて(というか原作を読んだときにも感じたことだが)、二重の意味でこの日記のなかで語られる真実というものにどうも懐疑的なのだ。どこか全面的には信頼できないというかね。

ひとつには、これは双子の子どもたちが書いた真実だからです。彼らが実際目にし耳にすることは狭く限られていて、やはりまだまだ経験も知識も足りない。たとえば、彼らが「友だち」と呼ぶ相手にしても、ナチの将校もいれば、彼らにタダで靴をくれた靴職人もいるという具合に。世間的にその人がどういう人か、正しい人かどうかは彼らにとってさして重要ではないのだ。

彼らにツラく当たる祖母にしても、もしかしたらだよ、こんな世の中だからこそ、どんなことをしても生きていける大人になってほしいとか、働かないものは食べていけないということを教えようとしたとか、親を頼りにしなくても生きていけるように育ってほしいなどという、信念があってわざとツラく当たっていたのかもしれない。だけど、子どもには、その部分が見えず、彼らの目にはただの意地の悪いお祖母ちゃんに見えてしまう。

やさしいはずのお父さんやお母さんは、戦争が終わったとき、どういう行動をとったか? それはここでは具体的に書かないけれど、大人のエゴとか弱さとか、そういうものが途端にむき出しになった。戦争がそうさせたのか、あるいは双子の子どもたちが、ツラい目にもあいながら成長したからこそ、以前には見えなかった真実がよりはっきりと見えるようになったからなのか。

実際、僕らの目にも、あれだけ憎ったらしい感じだった祖母が、次第に弱さや人間らしさを見せるように映ったというのも、つまりはそういうことなんだろう。だって双子の目をとおした世界を、まぎれもなく僕らは映画のなかに見ているのだから。

そしてもうひとは、そもそも、彼ら双子を取り巻く大人の世界が、戦争で人を殺し合っている世界が、ほんとうに正しいのかという根本的な疑問だ。この世の中の、いったい何が真実でなにがウソなのかが僕らにもわからない。祖母がなぜ村人たちに魔女と呼ばれるのか、その理由だってほんとうに正しいのかどうかすらわからない。

子どもたちは、たしかに経験も知識も足りなかったが、あるいはそういう大人たちの欺瞞を本能的に嗅ぎ分ける能力を実は最初から持っていたのかもしれないですね。あるいはまた、彼らが否が応でも成長した結果、これまで見えなかった真実が見えるようになったのかもしれない。

ラストで双子たちが旅立つのはそのためだ。戦争が終わったタイミングでそうしたようにも見えるが、実際には、彼らはもはや子どもではいられなくなったから次のステージへと進むのだと僕は思った。

小説世界で想像していたことを映像で見せつけられたときの、インパクトというかショッキングさはやはりそうとうな破壊力がある。そしてつくづく、双子の兄弟にピッタリな子どもたちをよくも見つけてきたものだと感心した。それとあの祖母の、圧倒的な存在感とリアリズムは実に素晴らしかった。 

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