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ローラン・ビネ『HHhH プラハ、1942年』感想

ローラン・ビネさんの『HHhH プラハ、1942年』読みおわる。おっもしろかったなあ。全部で 257 の断章でできているから、僕のようにわりと細切れに読んでいても、いつでもスッと小説のなかに入ってゆける。けっして愉快な話ではないけれど、平明な語り口とユーモアに救われた感じだ。

――以下、ネタバレあります。

ナチス親衛隊ではヒトラーの側近といわれるヒムラーに次ぐナンバー2で、「金髪の野獣」と怖れられたユダヤ人大量虐殺の首謀者ハイドリヒという男は、ふだんから自分の警護には無頓着だったらしい。護衛も最小限の人数で、統治国のチェコではいつもメルセデス・ベンツのオープンカーに乗っていたのだという。豪放なのか人を舐めていたのか。

一方、ナチスドイツと敵対するイギリスと在英チェコスロヴァキア亡命政府は、プラハに十数名のパラシュート部隊を送り込み、「類人猿作戦」と呼ばれるハイドリヒ暗殺計画を企てる。「ハイドリヒこそ、ヒムラーの頭脳」。これをドイツ語で書くと "Himmlers Hirn heist Heydrich." まさに頭文字の3つの H と1つの h をとって、この小説のタイトル「HHhH」というわけだ。

僕はね、ヒトラーとヒムラー、ヒムラーとハイドリヒ、あるいはハイドリヒとアイヒマンなどの表裏の関係には、正直いうとそれほど明るくない。が、どうもこの本を読むかぎり、ヒムラーとハイドリヒの関係は、たとえばちょいと秀吉と黒田官兵衛の関係にも似ているかなあという印象を受けた。

互いに互いを必要として、上が下を庇護し、下が上を支えてはいるが、上は下の者の存在を怖れどこかで疎ましく思ってるという。そういうことはこの小説の核心でもなんでもないんだけど、ハイドリヒ暗殺の真実、ということをつきつめて考えたとき、そんな突飛な空想もちらりと頭をかすめた。

パラシュート部隊に任命され、ハイドリヒ暗殺の実行部隊でもあったチェコスロヴァキアの軍人ガプチークとクビシュ。ガプチークはハイドリヒを目の前にして銃を構えたが銃は不発で、逃亡。つづいてクビシュはメルセデスに向かって爆弾を投げたがこれも外れ、逃亡。しかし、ハイドリヒはこのとき爆破した車の破片で負傷し結果的には感染症で、死ぬ。

当日のドキュメンタリータッチの叙述は、まさしく臨場感にあふれ、ページをめくる手ももどかしいほどだった。ここが第1のクライマックス。それ以前に、暗殺計画の意外なずさんさというかアバウトさには笑ってしまうのだが、まあそれはそういう時代だったということなのかもしれないですね。

暗殺のあとカブチークは仲間のひとりの裏切りにあう。ナチスは彼を教会の地下の納骨堂に追いつめる。親衛隊は消防車をくり出し、地下に放水して納骨堂ごと水没させてしまおうとするくだりが第2のクライマックス。そしてこの場面描写が驚くのは、書いている現在の日時とシンクロさせてリアルタイムな更新報告を読んでいるかのような気になるところだ。おそらくこれまで見たこともない離れ業だと思った。

司馬遼太郎は、ときたま自分の小説のなかに登場しては、作品を解説したり物語を先に進める役を演じたが、ローラン・ビネさんは、いまこの小説を書いている過程や手法や心情やそのほか私生活のことまで赤裸々に、作品のなかに持ち込んでくるのだった。

さっきの第2のクライマックスの場面では、著者自身がガプチークにのりうつって完全にガプチークと一体化する。そうかと思えば急に、「ぼくはカブチークではない。そうなることはありえないのだ。」と素に戻ったりもするわけだからね。なんどもいうけど、おっもしろいこと考えるよなあ、この人は。

うちの上の子なんて、著者が作品に顔を出すのをイヤがるので、この本は絶対勧められない。たしかに一歩まちがうと、せっかく物語に没頭しかけたとき著者にしたり顔で出てこられて、読者はふっと現実に引き戻されることだってありうる。でも、本作にかぎっていえば、僕はこの手法はおおむね成功していたと思うよ。

あと、著者も作中で語っているように、これは小説ではあるんだけど原則として歴史の事実だけを記述し、ことにディテールには徹底的にこだわっているのだ。実際、検証したわけではありませんが。でもここまで手の内を明かされるとかえって信用しないわけにはいかない。というか、そう思わされた時点で、すでに著者の術中にハマっているのかもしれません。

そしてそこまで事実にこだわりながらも、ハイドリヒ暗殺後の世界をまるでカブチークが生きているかのように夢想する場面が、ラスト近くで唐突に待っているという。僕はもう、戸惑うやらあやうく泣きそうになるやらで……。ドラマチックなラストの回想シーンは、まるで懐かしいセピア色の映画の一場面を見るようだった。ジーンと胸がつまってくるのだった。 

HHhH (プラハ、1942年)

HHhH (プラハ、1942年)